xshimmyのブログ

好きなもの。読書会、少女マンガ、人文系、宇宙、社会学、ノンフィクション、、、と、好きなものを羅列していけば何かがつかめる気がしています。ブログは主に世の中に対するぼんやりとした主張です。よろしくお願いします。

『海獣の子供』 感動しすぎてもはや涙も出ない。

映画『海獣の子供』観てきた。もともと、五十嵐大介の原作マンガも好きだったのだけど、あの STUDIO4℃ が映像化すると聞いて、しかも6年かけてとなれば、観に行かざるを得ない。

 

原作マンガは世界中で起こる海洋奇譚や、海に関する神話・不思議を圧倒的な画力で描き、生命の根源、「人間(僕たち)はどこから来たのか」をテーマとした壮大なものだった。カギとなるのはジュゴンに育てられた二人の少年、ウミとソラである。映画は、1人の思春期の女の子ルカの、ひと夏の海洋浪漫ジュブナイルに落とし込んでいる。

 

ただねー、神話クラスの話を、「あんたの手のひらの物語」にしたもんで、もう密度が半端じゃなく、映画の間中、僕は放心状態だった。感動しすぎて涙も出なかった。

 

物語の冒頭、ルカが暮らす家の玄関には、イルカとカエルの置物がある。ルカ≒イルカは、陸上と海をつなぐものであって、その隣にカエルがあるので、ああ冒険をしてもちゃんと「帰ってくる」のだなと分かる。

 

マンハッタン沖にザトウクジラが出現するなど、ニュースごしに「海で何かが起こっている」感が出てくる。海洋学者のジムたちは、海の生き物が歌うSONGを研究し、追い続けてきた。人間は言葉によって他者に想いを伝えるけど、自然は、海は、SONGによってダイレクトに概念を伝えているのではないか。そんでその概念は、生命の誕生、宇宙の創生から、積み重なり折り重なった歴史そのものである。作中、鯨や魚たちがルカたちを明らかに「見る」ような眼の動きをしてるんだけども、「彼ら」はずっと見てきているわけだ、人類の誕生から、宇宙の誕生から、世界を。その海が、「誕生祭」をしようとしている。ウミとソラ、ルカは、その“祭”を目撃する。

 

んー。抽象度が高く説明しがたい。米津玄師が歌う『海の幽霊』の歌詞にもあるとおり、「大切なことは言葉にならない」ので、音楽・映像表現を直に体験いただくしかないのだけれども、言っていることはごくシンプルで、宇宙と人は同じ構成要素でできてる。海で行われる“祭”はすなわち、人間の誕生の瞬間そのものであり、宇宙の誕生それ自体である。

 

ともすれば陳腐になりがちなこのテーマを、何度でも言うけど圧倒的なビジュアルと音楽でみせるという。映画を観終わった後に夏が近づいた空とか見ると、世界の見え方が変わっているぐらいの衝撃。宇宙とか生命は、ずっと離れた彼方にあると「同時に」僕ら1人ひとりの人間の中にある。

 

まあね、ルカが起こす行動の動機がよく分からないとか、やたら登場人物の説明口調がやたら多いとか、【神話】を分かりやすくしようとしたんでちょっとそれ気になるという意見も分かります。でも僕は言いたい。

 

ありがとう。

『アラジン』 本当の願いとは

『アラジン』においては、自由を志向するアラジン、ジャスミン側と、支配を趣向する国務大臣側が対立している。そもそも魔法のランプ出身のジニーが叶えられる願いには制約がある。人を殺すこと、人を恋に落とすこと、死人を甦らせること。これはできない。何故ならそれは、「生きる自由・恋する自由・死ぬ自由」を、それぞれ奪う行為だから。だからそもそも魔法のデフォルトの設定として、抵抗権がないような自由をはく奪する願いは排除されてる。

 

まあなんか、不倫とかでよくある、「まさか」的な、交通事故のような、まるで巻き込まれたかのような、そういったモノは恋じゃないってスタンスですよね。恋とは選択的に、自由に、それこそ生きる自由・死ぬ自由級の、人間の尊厳にかかわる問題であると。

 

物語の結末は分かりやすく、管理・支配を希求した国務大臣は、アラジンの知恵により、自らが支配される側の究極のところに落ち込むことになる。まあ、自由の考え方にもいろいろあり、アラジンは宮廷でのゴージャスな暮らしを自由と思い、ジャスミンは規則だらけの宮廷でなく外の世界にこそ自由があると思っている。

 

二人とも、「ここではないどこか」にそれぞれが焦がれる自由があると思っていて、そしてそれぞれが「ここではないどこか」の住人である。そんな二人が一緒になるために、自由をはく奪する国務大臣を撃破する必要があったのだけども、まあ彼をやっつける時に魔法のランプをどっちが獲ったか合戦じゃなく、国務大臣自身の思想の問題に言及したとこが良いですね。支配を求めるものは、自らも支配されることを甘受せねばならないという。

 

魔法のランプ獲ったどー合戦だと、「天皇の御旗を獲ったもん勝ち」と一緒だから。

 

ところで、この話はそもそも、胡散臭い商人が魔法のランプの逸話を話すところから始まっている。『アラビアン・ナイト』と同じく、作中作だ。ということは、この商人が言っていることが「本当に起こったことか」は分からない。

つまり、「本当にこんな話があったら良い」という、願いが、そもそも『アラジン』には込められているように思う。

 

最初から、単純にアラジンという心の清い青年がいて、なんやかやあって王国を救って、って話になると、ただの説話になってしまう。本当にあった昔話でなく、本当にあったことか分からない、人々が自由を願った話、であるからこそ、この作品は魅力的なのだと思う。

 

まあ、僕が観たのは『アラジン』公開記念の金曜ロードショーアニメ版であったのですが。青いウィル・スミスも観にいくべきか。。。

誰からも支配をされないために、読書をするということ

ヤニス・バルファキス『父が娘に語る経済の話』を読んだ。さすが古代ギリシャの歴史を持つ国の人だけあり、文化的素養がすごかった。

なかでも、「人を支配するためには、物語や迷信に閉じ込めて、外を見させないようにすればいい」というのが響いた。ゲーテも外国語学ぶべし!みたいなこと言ってたけど、自国の言葉だけだと自国の物語に閉じこみ、それがどんなにおかしくても違和感を抱くっていう感覚すらなくなってしまう。

 

たとえば、「Fish」という単語。同じ魚が複数匹いても「Fish」だけど、金魚とサンマとか、違う種類の魚がいた場合は複数形「Fishes」になる。カノ国の人たちはだから、ぶわーっとしたサンマの群れとか、1個体として考えているってことだ。まあそもそも日本語は数によってカタチが変わるとかないわけで、なんとなく世界全体をぼうっと捉えているということかもしれない。英米は、なんだかんだで博物学の伝統があるというか、分類してナンボ、みたいなとこあるよね。

 

いやまあ、それは良い。言いたいのは、物語は確かにその人自身を救ってくれるささやかなモノであると同時に、権力とかが物語を押し付けてくると、とんでもない力で人を潰しかねないということだ。今の香港のデモにしても、「暴動」という言葉を使うと、無秩序な過激派が街を襲っているように見える。けれど、実際、デモ隊がぶつかっているのは権力にいる側の警官隊だけで、その警官隊は、ゴム弾を空とか足とかじゃなく、直接に市民の頭狙って発砲している(そして2名重症)。もともとがアンフェアな戦いの上に、「暴動鎮圧」という物語をかぶせることで、権力側の物語に人々を押し込もうとしている。外の世界を見させないために。

 

特に現代世界は、検索ワードをもとにしたアルゴリズムで、その人が求める答えを何度も何度も自動で表示してくれる、とても便利な世界だ。そして思うのだ。ほらやっぱり俺の私の考えは正しい。だって答えがちゃんと出てくる。賛同していいねしてくれる人たちもこんなにいる。だから、外側にいる「あんな人たち」は決定的に間違っていて、そんな人たちに「俺は私は負けるわけにいかない」

 

イヤ、この閉じた物語から抜け出すのは簡単なのだ。大きい本屋に行けば良い。そんで、普段、自分が行く箇所とはちょっと違う場所・棚を覗いてみると良い。そうすると、あまりにも世界は多様であり、芥川が「自分が一生に読める本はほんのわずか」と絶望した気持ちもちょっと分かるかもしれない。でもそれで良い。ちょっと外に出るだけで良い。そうすれば、自分を閉じ込めていた物語から、別の物語に行ける。

 

人生、その繰り返し。

マララさんがノーベル平和賞を獲ったとき、僕は悲しかった。

少し前のノーベル平和賞は、子ども達に紙とペンを!と主張し、武装勢力に襲撃されながら信念を貫いたマララ・ユスフザイさんにあげられた。僕は悲しく、情けなかった。彼女は十分以上に成熟した考え方の持ち主だけど、子どもに、こういったことを言わせてしまうような世界に大人がしたことに。そしてまた彼女に、平和の使者という使命を負わせてしまうことに。

 

香港では今、雨傘運動が繰り広げられている。中国における民主主義・自由の最前線にして、ここが崩れたら中国に希望が潰えるとも言われる最後の防波堤だ。この雨傘運動の女神とされる女性もまた、相当な信念を持った人だけど、20代の女性である。

 

ジャンヌ・ダルクの時からそうだけども、ある運動に対して、僕らは「何者でもない」女性・子どもを、シンボルとして持ち上げたがる。背景を持った男性がその象徴に立つと、何か裏があるんじゃないかとか、何かの地位を狙っているんじゃないかとか、余計な不純物が入るせいかもしれない。

 

どうしたらこうした運動を、ジャンヌ・ダルク級の人物なしに成し遂げられるか。

なんつーか、子どもには、何の条件も要件もなくただただ全肯定されるような時期が必要だと思う。失敗とか挫折とか、強く生きるためには必要とか人は言うけれど、人生のはじまり・最初に失敗や挫折、たとえばいじめや暴力や悪口やネグレクトなんかがあると、やった方は覚えていなくとも、やられた方はずっと残る。本当に消えないので、「それ」も込みで、人生を始めなきゃならなくなる。

 

だから、闘争は、周りの、ほんのささやかな人たちで良い、その人がその人で在ることだけで肯定されるような時期を経た後じゃないといけない。

 

山岸涼子『レべレーション』には、ジャンヌ・ダルクが神からのお告げを授かるシーンが描かれている。日本風に言うと狐憑きだったのかもしれないし、彼女自身は幸せとかそういうベクトルで人生を生き切ったわけじゃないかもしれない。それでも、ほとんど大義を失った戦争になっていた百年戦争に、彼女は関わる必要はなかったはずだ。

 

と、偉そうに宣っているけれども、僕も別に何かをしているわけじゃないし、子ども達を守るために具体的な活動をしているわけでもない。しかし、決断を迫られたとき、「子どもたちが無条件に全肯定される方」を選べるよう、準備だけはしておく。

 

もちろん、大人・子ども・女性に限らず、自らが生きやすいように、不平不満を発信していくのは良いことだ。「みんな我慢している」なんてふわっとした「世間」に負けてはならない。太宰風にいえば、「許さないのは『世間』じゃなく『お前』だろう」

世間とか日本とか社会とか、主語が大きくなってきたら要注意。それはただのマウンティングだ。

 

以上!

歴史とは

E.H.カー『歴史とは何か』によると、僕らは現在の視点から過去をみることしかできないわけで、純粋な過去は理想であり、どうしたって現在のバイアスがかかるという。だから逆に、歴史は面白い、とも言える。

 

僕が習ったとき、今や世界遺産になる古墳は、仁徳天皇陵だった。ただしこれは、古文書とかでそうだと言われているだけで、聖域であるがゆえに実地調査ができず、学術的に不正確な名称ということで、大山古墳となった。これは分かる。根拠に基づいた歴史のアップデートだ。

 

問題は、維新の長谷川議員のように、被差別部落の人たちを性犯罪者と決めつけるような、改竄の方だ。民話とか資料をあたっていくと、士農工商に入らなかった人たちはむしろ神に近い存在、現世と異界の境目にいるがゆえに、常世から切り離されたという説もある。死とか異物を穢れとして忌み嫌うようになったのは江戸後期あたり。その感性があるから、かつては神に近い人たちが貶められ、あげく性犯罪者とか言われる。本当にひどい話だ。

 

最近、『オスマン帝国』なる本を読み始めた。奴隷の子どもであろうとも、何の問題もなくスルタンという世俗の王になれる、って話が面白い。その代わり兄弟殺しメッチャあるけど。

イスラムはそもそも、一神教の先輩であるユダヤ教キリスト教啓典の民としてしゃーす!と心配りしている。オスマン帝国は中心のメッカからみると東の果てなので、ローカライズされたイスラムであるけども、アメリカの黒人奴隷みたいなイメージでなく、もっと自由度があるキリスト教系奴隷などを抱えていた。

 

こんな感じで、かつて学校で習った知識が上書きされていく過程が楽しい。スレイマン1世とかなかなかの王だと思ってたら兄弟喧嘩中で帝位に就いていると見て良いか微妙だった。根拠を持って歴史をアップデートしていけば、現在の自分がこう思いたい・なーんて願望が投影された歴史観から抜け出すことができる。

 

まあ、そこで情報を集めるときは、本当に自分が予期しない外側からというか、普段こーゆうの読まないなぁ、この辺の知識薄いなぁ、とか、そんな事故のような出会いに積極的になるようにしてる。

 

検索ワードは、結局は自分の内側の言葉だし、検索ワードをもとにしたアルゴリズムはどこまで行っても自分だ。今の自分の延長に歴史があるんじゃない。歴史は、ただそこにある。それをどう捉えるか、力量が問われる学問である。

つらい時はどん底まで落ちること。そして外部化すること。

もう本当につらくて仕方ないことがあった時、そのつらさの内容にもよるけれど、ひたすらどん底に落ちて閉じこもるのもアリだと思う。血の繋がった家族も、理解してくれる恋人も、共感してくれる友人も、誰も他人が入りこめない自分だけの暗い場所でしか、自分を再構成できないものがある。

 

これには時間がかかる。再構成するには、自分の本当にダメなとこ、どこで道を間違えたか、その選択をしたのは何故か、など、スルーして見なかったことにしたいものをたくさん、洗い出さなきゃならないからだ。

 

この領域までくると、誰もその人を助けられない。しかし、待つことはできる。暗い暗い1人だけの場所の外で、待っていてくれる人がいるだけでそれはもう希望なのではある。

 

そんで、その1人だけの場所、どん底に落ちていくのに必要なのは勇気とかじゃなく、意思である。「それ」と向き合うつもりがあるか。別に向き合わずとも人生ふわふわっと過ごせるかもしれない。それでも対峙するつもりがあるか。

 

ある意味、生まれ変わるつもりがあるか、である。

 

そうして、どん底から戻ってきた時、つらくてつらくて仕方なかったことは、「外部化」できてたりする。つまり、自分自身からある程度切り離し、客観的になれる、ということだ。この外部化は、逃げてたら一生できない。「逃げたから」という感情に引きずられ、身動きができなくなってしまう。

 

つらいのは、今・主観でいっぱいで、それを客観視できないからだ。10年経ったらたいていのことは変わっている。10年後からそれを振り返ったときに、果たしてどうか。

 

と、偉そうに言ったけれども、とにかく緊急で他人の助け必要今すぐ助けて!なんて事象もある。再構成とか言う前に、今すぐ何とか!って場合は躊躇ってはいけない。何度でも助けを求めて良い。1人だけでいることで救われるつらさと、他人のサポートが必要なつらさ、両方ある。

 

というわけで、僕は今わりとどん底です。

でも戻ってきます。アイルビーバック。

他人のコンプレックスを笑うな、自分のコンプレックスを笑え

コンプレックスは多様だ。目元が気になる人がいれば、学歴、自意識、もっと深い個人史に根差したもの。コンプレックスがあるから明日への活力が生まれることもあるし、コンプレックスがあるから自縄自縛で身動きがとれなくなることもある。

 

僕?

 

僕は中学校まで、学校の勉強ができるタイプだった。ついでに足が速かった。だから大抵のことはうまくできると感じていた。成功体験が先にあったからだ。

んで、世間の大半の人と同じく、高校あたりから「おやおや?」と気づくようになる。県内だけをみても、自分より勉強ができる人はたくさんいるし、運動ができる奴など数多おられる。

 

そこで僕は方向を変えてしまった。学校のテストができずとも、文化的背景というか、文学作品とか映画とかちょろちょろ観ていたので、そこで一目置かれる的存在になったのだ。あくまで「頭良さそう」な奴であって、東大に行くような「頭の良いヤツ」では決してない、そんな存在。だから僕の自意識はしおれることなく、むくむくと大学以降まで肥大したまんまだった。

 

叩かれるのが遅かった。致命的に。

ということで、テストとか、まあ後は対人関係とか、そういう他人との真正面の対峙というか、そういうもんが苦手なままだった。楽しい場所に居ても、どこかメタ的に捉え、没入するというか、そういう感覚がなかなかつかめなかった。「うぇーい!」とか叫べなかった。

 

それが僕のコンプレックスのようなものだ。

いや、もっとたくさんあるけれども。

ストレートな人間関係を築けている人に「今度遊ぼう!」と誘われても、「そうだね、是非!」という、まったく具体性のない返しをしてしまうとか。本当に未だに、真正面から人と付き合うことができていない。

 

でも良いのだ。それも含めて自分だから。僕が自分自身を欠点も含め認めているのは、最初に成功体験を抱かせてもらったことと、人生における都度都度で、良い人たちに恵まれたからであり、個人の努力ではない。ありがたいことだ。

だから僕は、他人のコンプレックスを絶対に笑わない。それはその人にとってとても大切なものであり、同時に、なんとか手放したい業のようなものでもある。

ただし、それは、その人にとって人生そのものだから。だから、それを笑えるようになると良い。健全な自己肯定は、自らのコンプレックスを笑うことから始まる。

 

逆に、コンプレックスが何もない人は、危険だと思っている。そんなのっぺりした野郎に、僕の人生を舐められてはたまらない。僕はこのままで行く。