xshimmyのブログ

日々の雑感を書いています。

ファインディング・ドリーにみる家族

映画『ファインディング・ドリー』を観る。

ドリーは、常に「現在」を生きている。忘れっぽい特性のため、少し前のことでも次々に忘れていってしまう。そんなドリーはしかし、何かを探し続けていた。それが、あらゆることをきっかけに、幼い頃にはぐれた両親を探していたのだと気づく。

 

両親を探す道中、海洋保護センターに行き着くドリー。そこには、何か欠けた動物たちが集まっていた。足が一本欠けたタコ、目がよく見えないジンベエザメ、自身の特技がうまく使えないシロイルカ。なかでも、過去が、記憶が、次々になくなっていってしまうドリーはかなり致命的な欠けっぷりであるのだけども、彼ら彼女らが少しずつ、互いに補い合うことで、前に進むことができる。

 

感動的なのは、ドリーの両親の教育である。

ドリーの両親は、ドリーの忘れやすい特性について、それを障害だとも個性だとも言っていない。ただ、彼女に合わせた、生きる力を身に着ける方法を徹底して教えていた。そして、その方法を彼女が実践できると信じていた。何年も。

 

ある種の障害を、それもその人の個性だ、という論調がある。

ファインディング・ドリー』を観て、障害自体が個性なのではなく、障害を持ったその人自身の個性について改めて考えるきっかけになった。ドリーは、過去の経験を蓄積して分析して選択肢を検討することは苦手だけども、「現在」をしっかり生きているから、その場の発想力と行動力はずば抜けていた。そのドリー自身の力によって、結果的に両親を見つけることができた。

 

また、物語の後半において、彼女の「家族」は拡張する。

血のつながりでなく、また趣味趣向でもなく、ただ「好き、離れたくない」という感情によってつながった「家族」。

先に書いた、何かが欠けていた動物たち。特に、足が欠けたタコは、あるトラウマに支配されていた。そのトラウマを植え付けられた場所に、きせずして放り込まれた時、タコを救ったのは自分が常に助け続けていたと思っていたドリーである。現実的な危機からだけでなく、「海になんか出ずにずっとびんの中で穏やかに暮らしたい」という、タコの心すらも、ドリーは救ってみせた。

 

みんな、どこか、何かが、欠けている。

そんなもの、なんでもない。

だって、ドリーは、両親を見つけたのだから。

欠けたものは補い合えるし、別の選択肢は常に開かれているのだから。

そうしたことを、エクスキューズなしに信じあえる者同士が家族なのだとしたら、きっとそれを拡げていくことができる。

その一歩を、ドリーが教えてくれる。

キモチワルイの境界

境界を越えるとき、または、境界が曖昧になる時、「キモチワルイ」感覚が起こる。

 

事例1

電車の中でお互いに触り合うような、本気度の高いイチャつきをしているカップル

⇒二人の境界がなくなっており、また、二人と世間との境界が曖昧になっているから見ていてキモチワルイ(見なきゃ良いことではあるが)

 

事例2

むんむんおじさんから来る、超パーソナルなアドバイス(「子ども作れよ~」)

⇒個人の思想信条という、ATフィールド内に使徒のごとく執念深く入ってくる感じがキモチワルイ。

 

事例3

ぬめっとした蛇

⇒胴体とか足とか、境目みたいなもんが何もなくてキモチワルイ

 

僕は他人と接する時、なるべく壁を作っていたい。壁を越えてきたり、溶かそうとするような行為や話題は、キモチワルイなぁと思う。まあしかし、その壁を越えて生身で打ち合うからこそ生まれるナニカも確かにあるわけで、じゃあ一体そのナニカって何なのか。

 

なんつーのかな、事例1はもうカップルならば仕方なくて、見えないトコでやって欲しい。事例3も同様。人間社会の目の届かないところにいて欲しい。ところが事例2の事態にあっては難しくて、それはコミュニケーションの始まりのところでもあるし、コミュニケーションの最中にぽろっと出てしまう可能性もあるものだ。

 

相手と自分との、境界を尊重すること。

それだけでは足りなくて、自分が変わる可能性を楽しむこと。

境界を越えられたり、境界が溶け出してくることがキモチワルイのだとしたら、新しい境界を築ける自分になれば良い。また、相手に対しても、相手が変わる可能性を信じること。つまるところ、相互変化が楽しいんじゃないか。

岸政彦『断片的なものの社会学』

あらゆるものごと、営みが、「物語」に吸収されてしまう。それは1つの暴力だと思う。その人自身の、何にもならない、誰ともつながらない、「断片的」なものにこそ輝きが生まれる。そのことを、本書は教えてくれる。断片的に。

 

「かわいらしい」とは、生きていることだ。女子は、または、女子的マインドを持った男子は、「かわいいー」をうまく使いこなせる。そこには理由はいらないし、エクスキューズもない。一方、僕ら男性は、何かを無条件で愛することができない。人と人との間に、「かわいらしいもの」を挟んで、「沈黙」を退けることができない。

 

なんということだ。

 

たとえば、異性装の方が書いている(と思われる)ブログ。そこには、日々の雑感が、「日本の政治は腐ってますね。」などのボヤキが、ごくごく普通につづられている。明らかにおじさんの、「異性装」の写真とともに。いや、いいですよね、これ。

この方が、あえてそうしているならば、恰好良い。「あたしがこのような恰好をしているのはごくごく普通のことで、わざわざそれに対して他人に弁明する必要なんかない」という信念のもとにやっているケース。

いやいや、この方は、そのような信念など考えたこともなく、「普通」と「異常」の境界なんか目もくれず、ただ思ったことを普通にブログに書いているのだとしたら、もっと良い。日本という国に、こんなにも多様性に対して寛容な場所があるのか、と、誇れる。「差別を乗り越えるということは、ラベルについて「知らないふりをする」ことではなく、「ラベルとともに生きる」ということ」だ。このような異性装者の方と、ともに生きることだ。

 

あるいは。私たちが持っている幸せのイメージは、いろいろなカタチで、それが得られない人々への暴力になる。結婚、子ども、仕事、居場所、家族。

だから、完全に個人的な「良いもの」なんかがあると良い。石とか好きだと良い。

他人との接触は、基本的には苦痛である。他人が作る「○○さんという人の物語」に取り込まれると、境界が曖昧になる気持ち悪さがある。それを否定するだけの根拠も、内省したって出てこない。けれど逆に、他人との接触が気持ち良くなるケースもあるから、不思議だ。コミュニケーションは、自分をさらけ出すから成立するのではない。自分は、ブラックボックスのままで良い。すべてを告白し、啓発する必要なんかない。ただその、各人のブラックボックスをそのままに、認め合い分かち合う。それで良いじゃんか。断片的で良いじゃんか。完全に分かり合う必要なんかないのだ。

ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』

「社会が本当に変わるということは地べたが変わること」

 

生活保護を手厚くすることでモラルが崩壊する、としたサッチャー政権以降、英国は下層の人たちを切り捨ててきた。カンヌで賞をとった『わたしは、ダニエル・ブレイク』では、フードバンクでの順番を待ちきれず、その場で缶詰などをすぐに開けて人目も気にせず食べ始めるシングルマザーの女性が登場する。食べる、という行為はとても無防備なものだ。だから我々は親しい仲、あるいは親しくなろうとする仲としか、他人とご飯を食べない。「食べる自由」を奪うことは、そのまま人間の尊厳を奪うことに直結している。

 

本書では、まんまこの映画に出てきたような人が登場する。

底辺託児所(貧乏でありながらも笑いと多様性に満ちていた場所)から、緊縮託児所への転換。緊縮託児所に通う、または通わざるを得ない人たちは、分断されている。“チャブ”と呼ばれる、英国下層文化を形成してきた人たちを、上昇志向の強い移民の人たちは忌避している。たとえば、くちゃくちゃガムを噛みながらメタルな恰好で汚いロックな言葉を話すような女の子を。

 

しかし、その女の子は、ちびちゃんたちに人気がある。朗読に迫力があるからだ。

 

僕もまた、成長するにしたがって、いわゆる「うぇーい」文化を失ってしまった。

言葉遣いを、論理的で礼儀正しく矯正してきてしまったがために、他人の心にどーんと響いていくような、煌めきを感じ取れなくなってしまった(もともとなかったかもしれないが)。小学生の頃、語彙は少なくとも、もっと友だち同士通じ合っていた「感じ」があった。「うぇーい」だけで、どこにでも行ける気がした。

 

「階級を昇っていくことが、上層の人々の悪癖を模倣することであれば、それは高みではなく、低みに向かって昇っていくこと」である。

階級を昇り切った人たちが、地面に立って生きている人たちから食べる自由を奪い、人間の尊厳を無自覚に奪っている。「うぇーい」文化を亡くした人たちが。

 

けれども、これは「可哀想な人たち」の話じゃない。ある人たちを「可哀想」と言うことは、その人の人生の在り様を否定することだ。人間なめんな。勝手に可哀想とか言って、その人の笑いや楽しみを「なかったこと」にすんな。子どもたちと、子どもたちをとりまく大人たちの奮闘からは、そんな強さを感じる。

 

英国の強さはここにある。 

フランス・ドゥ・ヴァール『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』

動物実験をするとき、その動物の本質を想像しないと、検討違いの結果を招くことがある。たとえば、ゾウの鼻は「目」並みの感覚器官なので、鼻をふさがれるとほとんど「盲目」になる。だから、高い位置にある食物をとる時、鼻を使わないととれないような条件設定をすると、ゾウは警戒してそれをやらない。その代り、踏み台を持ってくるなどの条件設定にすると、なんなくそれをこなす。

 

「特化」というらしい。つまり、「動物は知る必要があることしか知らない場合が多い」。人は逆に、将来何の役に立つのか分からないがとにかく色々手をつけたりする。無関係なもの同士をつなげることが創造だ、とか言われるくらい。それはたぶん、時間軸の違いもある気がする。人は一人ひとりの自我がとても強いから、自分ひとりの人生のうちに、進化しようとする。動物は、もっと世代レベルの時間軸で進化するから、動物いっぴきの時代にやれることはちょっと少なくて、だからこそ目的的になるのかもしれない。

 

ところで、僕ら人と、動物を分けるものは何だろう。

 

その分けるもののひとつに、「言語」があるけれども、「言語」が扱えるということは、そんなに優位なことなのだろうか。サル、ゾウ、イルカは、他者の心的状態を把握する能力が優れている。自分以外のものに共感できる。言語は思考自体をある枠にはめこむものである。とても便利だけど、もやもや~っとしたアレコレと、言語の間にはズレが出たりする。言語に頼っているからこそ生まれる、ズレ。

 

シェイプ・オブ・ウォーター』も、ヒロインは手話を使い、イケメン半魚人と心を通わせていた。異種同士の一目惚れだった。言語が使えないからこそ、相手の表情、しぐさ、場合によっては温度や鳴き声から、心を通わせ合う。

 

人間は、言語を持ったことで、「特化」したのかもしれない。同じ言語を持つ共同体でみんな一緒、という幻想を抱くために。過去や未来まで含め、「仲間」だよねって確認をするために。しばしば、人は進化の系統樹の一番先端のように扱われるけれど、進化は実は、人の手前でとまっていて、その先は単に人が特化しただけなのかも。動物並みに共感力がないケースがしばしば人に見られるのは、そのためだったりして。

コミュニケーションについて

花田菜々子『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』を読んだ。良書だった。

僕もよく読書会に参加するから、分かる分かるーって場面も多かった。本を通しての交流は、「植木鉢理論」みたいなものだ。人と人は、ダイレクトに言葉を伝え合うカタチでは、うまコミュニケーションがとれない。植木鉢が間にはさまっているくらいがいい。特に本のような植木鉢だと、その人の奥にじーんと入り込んでいくこと、あるいはその人の深いところを薄ぼんやり感じ取ること、などができる。その可能性がある。

しかして、やはり人同士の出会いなので、「え~」というものもある。この本に書かれていることとまでは言わないけども、コミュニケーションのあまりの断絶ぶりに絶望するケースだってある。

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貴戸理恵『「コミュ障」の社会学』によると、コミュニケーションは「他者や場との関係によって変わってくるもの」だ。この、状況によって変わってくるものを、コミュニケーション能力のあるなしとして、個人化してしまうことが現代の難儀なことの1つ。「私」と「あなた」がいての相互作用なのだ、コミュニケーションは。初めて同士の人が多い場においては、「私」も「あなた」もなかなか出てこない。だから安心してもらう場を作ることって大事で、それができないとふわっとして終わる。

引用の引用になるが、国谷裕子『キャスターという仕事』にあった、「聞と聴」の考え方。肝要なのは、聞こえてくるように聴くこと。聴に徹しながら聞こえてくるのを待つこと。観察力と想像力だ。たとえば高倉健は、インタビューが難儀な俳優として通っていたが、聴に徹しながら聞こえてくるのを待っていたら、ぽつりぽつりと話を始めてくれたという。高倉健には高倉健のリズムがあり、それはしばしばインタビュアーとズレていたのだが、リズムが合えばコミュニケーションは成立するのだ。

それと、集団におけるコミュニケーション、というか方向づけについて、ロバート・ムーア『トレイルズ 「道」と歩くことの哲学』には、羊の群れを御す簡単な方法は、「集団の欲求を受け入れること」。彼ら彼女らが進みたい方向を受け入れつつ、その欲求にそったカタチで道を整える。

などなど。

ヘッセ『デミアン』について思うこと

本書は「明るい世界」と「もう一方の世界」で揺れるエーミール=シンクレールの少年期から青年期までの内面を描いている。エーミールという名前からはルソーが連想される。場所柄、彼の周りはキリスト教(たぶんカルヴァン派)っぽいので、ルソーの自由な雰囲気に対する憧憬もありそう。

本書の題名にもなっている、シンクレールの友だちデミアンは、シンクレールにカインとアベルの新説を紹介するなど、従来のキリスト教観を揺さぶる。まんまニーチェである。アベル的集団(弱い側)がカイン的集団(強い側)に理由なく略奪され蹂躙されるとき、アベル的集団は善悪の観念を生み出す。つまり、「我々は道徳的にカイン的集団より優れているが、奴らは野蛮なので、我々を襲うのだ。愚かな奴らめ」という。

...

弱者たちによる、強者に対するルサンチマン。それがキリスト教の価値観の根源だとすれば、そもそも価値の根拠ってないんじゃね?というニーチェは、後に永劫回帰と超人の概念を生み出す。

まあしかし、シンクレールの苦悩はどうやら超人方向に向かなくて、夢分析マジックリアリズム的な雰囲気を醸し出す。

いや、ちょっと走り過ぎたので周辺から整理していくと、まず「明るい世界」は父を中心とした善良で無害な場所である。従来のキリスト教的世界なのだが、この宗教は「告解」がわりにポイントになってる気がしていて、というのは仏教やイスラム教などに比べて、がんがん内心に踏み込むんだよね。だからシンクレールは、「りんごを盗んだ」(またこれが、りんごなのだ)という「嘘」すなわち内心の罪に対して、懊悩する。告解できない、罪を抱えたままでいることの苦しみ。

「もう一方の世界」は、悪童クローマーたちが生きている、汚くリアリスティックな世界である。デミアン(つまりデーモン悪魔)は一見、こちら側っぽい。ただなあ、デーモンもまた「明るい世界」を成り立たせるための影とみると、この、地上そのものである「もう一方の世界」に住む者とも言いがたい。

のちに、デミアンは、シンクレールが視る夢と、現実のつなぎ役みたいなことをやる。(エヴァ夫人の解説など)。結果、小説のなかで起こっていることが夢なのか現実なのか曖昧になる。ヘッセは、ノーベル賞受賞前後(彼の作家人生における後半)にはマジックリアリズムの魁とも言える作品を書いている(らしい)。シュールリアリズムがもっぱら自己認識と現実との間の歪みに注目するのに対し、マジックリアリズムはその歪みそのものこそ現実である、という感性にもとづく。夢みたいなものこそリアル。

最初、僕はデミアンはシンクレールの内面そのもので、明確な他者としては存在してないんじゃないか、と思っていた。映画『スプリット』の多重人格の1つ、「ビースト」みたいな感じで。クローマーはデミアンに言われてびびったのでなく、シンクレールの別人格にびびった。また、席替えのシーンでも、デミアンは実在しないので、教師も注意をしなかった、など。

ともかくも、実在感が乏しいデミアンであるが、彼はラストシーンで、戦争の知らせを持ってくる。

またしてもニーチェにいくと、ニーチェキリスト教的裏付けのなくなった世界において(神は死んだ)は、永遠にあらゆることが繰り返される状態を受容する精神が肝要と言った。超人になれってことだった。西欧からみたオリエンタルな東洋思想なのだが、本書において、東洋の象徴たる「日本人」はデミアンによって退けられている。

そんで、シンクレールが最後に感じるのは、従軍した戦場での「痛み」であった。