xshimmyのブログ

日々の雑感を書いています。

東浩紀氏講演会

東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』読書会&講演会に行ってきた。その後、友人とご飯を食べ、いろいろ思うところが表出した。

「いま・ここ」の正しさについて。ある行為を正義であると判定するのは、事後的にしかできない。だから本来、プロテスト(反抗)は「今、正しいかは分からないが、未来ではきっと正しいと認められるはず」と「賭け」にでることで、「正しいプロテスト」はどこかおかしい。ちなみに「いま・ここ」の正しさを判定するのは規律権力、たとえば法律などの「記述」である。法律に違反した行為なのかどうかは、「いま・ここ」の時点で分かる。「合法」なのは現在わかる。「正しい」のかどうかは事後的にしか分からない。

そして現在の社会は「いま・ここ」の正しさを問う「フェイク・ニュース」であふれている。現在、それが、正しいのかを確認し合っている。でもこの「フェイク」について考えることはとても難しい。たとえば石牟礼道子『苦海浄土』は、水俣病被害に遭った漁師たちの言葉をその土地の方言でとつとつと伝え、講談社ノンフィクション賞の候補にもなった。...
けれどもご存知のとおり、本作は石牟礼による小説である。そもそも見知らぬ女性に対し、被害に遭った漁師たちが身の上話をこれほど克明に話し続けるわけもない。現在の基準でいうと、これは「フェイク・ニュース」だ。

しかして、被害にあった当事者は、その時の気持ちをすべて「言語化」できるだろうか。そして、彼ら彼女らが「沈黙」しているからそれは「なかったこと」になるのだろうか。彼ら彼女らが「沈黙」している「何か」を「想像」し「表現」して、その表現が彼ら彼女らの抱く「何か」に限りなく肉薄しても、それは「言語化」されていない・当事者が語ったわけではないから「フェイク・ニュース」なのか。

なんかこう、僕が読書会に参加するのは、この「何か」について語り合いたいからなんだろうな、と友人とのご飯を通じて感じた。

たとえば文学の主人公が不倫などをしたとして、「なんでそんなことをするのか意味不明!」と激怒する方がいたとする。その怒りは合法的だ。姦通罪的な常識に当該行為を照らしたとき、その常識から逸脱しているから、許せない。もちろん気持ちのこともある。「そんなことしたら不倫された方が傷つく!」と。

ここでちょっと考えたい。主人公も、そんなことは「分かっている」。にも関わらず、イヤ逆に進んでかもしれないが、不倫に至った「何か」があるから、そうした行為に及んだ。杓子定規の「合法的な人間」からはみ出した、「人間らしい部分」に焦点を当てて考えること。また、その行為が許せないのだとすれば、法律違反だとか「己の欲せざらんところを人に施すことなかれ」的な常識の枠からじゃなくて、自分の本性から出てくる気持ちに注目してみること。

限りない善行をやる人もいる。最低の下劣に及ぶ人もいる。両方が同居している場合もある。けれどもこれが、規律とか常識とか法律に反してるから「正しくない」と言い切ったのでは、話が終わってしまう。良い意味でも悪い意味でも、「人間なめんな」と思う。定規からはみ出すからこそ人間だし、そのはみ出している部分こそ面白いところなのだ。

という理想を言いつつ、まあ、難しいですよね。

過去と未来と現在と

・確実にある未来
・確実にありえない未来
・確実にあった過去
・確実にありえた過去

...

映画『ローマの休日』において、オードリー・ヘップバーンは「シネマティックな身体」を体現していたらしい。庶民の生活を軽快に魅力的に学んでいくアン王女と、圧倒的な才能で後に確実スターになっていくオードリー・ヘップバーン自身が映画を学んでいく、その重なり。シネマティックな身体は未来に開かれている。今でいうと藤井四段や清宮くんにわくわくする気持ちは、(多少の不安はありつつも)確実にある未来に向け学び進んでいく、その成長の過程に、心躍るのかもしれない。

ラ・ラ・ランド』。確実に、「ありえた」過去。でも、それは「なかった」過去。もしくは、僕は新海誠原理主義なのだけども、それは彼が『秒速5センチメートル』(あるいはデビュー作『ほしのこえ』)において、その人と「一緒にいたかもしれない」過去を現在の自分がずーっと引きずり、そのありえたかもしれない過去の可能性を閉じないで、なんかこう痛痒い終わらない青春をしている感じとか。なんか良いんです。

確実に、そこに、あった過去。『マイマイ新子と千年の魔法』。新子たちは約束をした。子どもたちの世界で、ほんのささやかな、けれどもとんでもなく大事な、約束。大人の社会が、死の現実が、その約束を壊す。そしてその確実にあった過去は、なくなった。なかったことになった。
まあなんか、約束って、未来に向けたことなのだろうけども、同時に「確実にあった過去」をなんとなく連想させる部分もある。『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』及びSecret Base聴くと今だにすげー泣きそうになる気持ち。そこに確実に「あった」のに、現在からは決してたどり着けない場所にある「それ」。だから新しく踏み出すしかない、大人への過程。

確実に、ありえない未来。日曜のザ・ノンフィクション。地下アイドルを追いかける40?50代の男性の未来。前日、映画の『SING』を観て「夢をあきらめちゃダメだ!」と盛り上がっていたテンションを一気に「あきらめた方が良い未来もある」と落ち着かせてくれたザ・ノンフィクション。ゴミ屋敷を台風で吹き飛ばして、偶然にボーイング747ができる確率よりは、ちょっとマシなくらいの、確実にありえない未来。イヤでもなんか、尊い。きっと男性もその未来がないことは「わかっている」。それでもやる。諦念をともなった、信念。まあでも、あきらめた方が良いとは思う。

それら未来と過去を、一挙にすっ飛ばした『メッセージ』。人類よりも圧倒的に知的な存在でありそうな感じの異星人(人?)とのファースト・コンタクト。言語とは何か。そして言語の背景にあるヘプタポット(異星人)たちの驚異的な思考・思想について。

時間軸の、どのタイプも好きだったけど、『メッセージ』の観点は今年すげー面白かったよなぁと、なんか急に思い出した。

沈黙ーサイレンスー

例によって『沈黙』について。
よかった。なんというか、「問いかけ」に満ちている感じがよかった。
奉行所の役人は言う。「ただの形式だ。ちょっと踏めばよい。少しなでるだけでもよい。それ以上は問わぬ。さあ、踏んで自由になれ」そう、僕なぞは、踏み絵は形式であって、内心の信仰とはまた別なのだから、踏んでも良いじゃないか、と思ってしまう。(まあ、踏み絵をした人も、パードレ(司祭)を【転ばせる】ためにあっけなく拷問にかけられたりしてしまうのだけども)

それは「強さ」なのか。死をも恐れず信仰を続ける姿勢はキリスト教が求める殉教なのか。炎で焼かれ、縛られたまま海に放り込まれ、頭に血が上って死なないよう首筋に小さな傷をつけられ血を滴らせた状態で延々逆さ吊りにさせられることが?

...

キチジロー(窪塚洋介)は、何度も踏む。「お前はクリスチャンじゃないだろ」と奉行所の役人に蔑まれるほどに。彼の家族は殉じた。彼の村の仲間も殉じた。それでも、イエス・キリストにだいぶ寄せた顔だちのキチジローは、生き汚く生き延びた。そしてロドリゴの処に何度も何度も告解に来る。俺は弱い。俺は罪深いと。いろんな処で言及されるとおり、キチジローは遠藤周作マーティン・スコセッシ自身だと言うのならば、キチジローと殉教者たちの違いはどこにあったのだろう。

沼。キリスト教の種が根づかないで腐る、底深い日本という沼。
平戸の領主と4人の側室の例えもそうだけど、小説『沈黙』は抜群の比喩に満ちた、聖書の教えのような雰囲気のある作りだった。その小説の魅力を忠実に再現し、スコセッシの宗教に対する感性(彼の『クゥンドゥン』とか好きだった)がうまい具合に小説と化学反応を起こしていた。良き映画だった。

近頃の世の中、「解説」が多すぎる。
『サピエンス全史』の下巻にあったけど、歴史は必然ではないし、過去のその時点ではあらゆる方向に行く可能性があった。にも関わらず時代の先にいる我々は、「なぜそれが起こったか」についてそれっぽい解説をし、なんとなく納得している。よくない。頭使っていない。

調べれば調べるほど、味の出るタイプの映画だと思う。

言葉と、その人

漫画『深夜のダメ恋図鑑』。男は生物学的に浮気するもんなの、とか本気で言うような、まあダメな男たちをひたすらディスる漫画である。

そのディスのうちの一つで、イヤそれは違うんじゃないか、というのがあったので、書いてみる。

中級程度の英語能力でオレできる自慢をする男に対し、「そんな日本訛りの英語でよく恥ずかしくないね」的な意見を述べるシーン。

...

イヤ、恥ずかしくないんじゃね?と僕は思う。
イタリア系、アイルランド系、アフリカ系。みなそれぞれのルーツを持っている。訛りは、言葉遣いは、その人やその人の家族、先祖が抱く故郷や故国につながる大切なものかもしれない。言葉遣いを否定することはその人のルーツを汚すことであって、いかがなものか、と感じる。

英語を母国語として使う人たちをネイティヴとし、そのネイティヴに近い発音ができることで自身の優位性を誇示し、「日本訛り」を蔑む行為。先にメリル・ストリープが「権力者に差別を肯定させたら、我々の敗北だ」と言った状況である。

『アデーレ 名画の帰還』なる映画では、「私はオーストリアの言葉ではなく、英語で話したい」という女性が主人公になっている。オーストリア系の彼女はナチスによって、家族や友人を奪われ、そうした行いを許した祖国を憎悪している。かつて家族や友人や恋人とささやかで大切な話をしたはずの母語を、唾棄するほどの憎しみと哀しみ。楽しかった素晴らしかった思い出よりも、憎悪と悲哀を呼び起こすようになってしまった母国語を、彼女はけっきょく喋らなかった。

ことほど左様に、言葉はその人の根幹を成すものの一つである。確かに彼氏が、オレ英語喋れる自慢をするのはいただけないかもしれない。売り言葉に買い言葉かもしれない。しかして言葉遣いでもってその人を蔑むのはよくない。

欧州からの宗教難民たちが創ったアメリカなる国は、ネイティヴアメリカンを虐殺し、血みどろの独立戦争南北戦争を経験し、奴隷制と向き合ってきた。ウッドロー・ウィルソンの頃から、アメリカは世界に介入し、理念を広げようとした。すでにイギリス、フランスが世界のほとんどを植民地化していたから、理念でもってそれらを解体する必要があった。たぶんに打算と計算があったものの、アメリカの理念は、「各地の母国語訛りの英語」を許容してきたように思う。

日本語訛りの英語、というわけで、別によいじゃないか。ちなみに、その彼氏とは別れた方がよいように思う。

ベルばら会回顧談

1年前の今ごろ。
僕はベルサイユのばら読書会を開いていた。
当時は少女マンガに情熱を傾けていたが、現在ではちょっと冷静になり、冷静と情熱のあいだ風のテンションで少女マンガを読んでいる。

同時期に、同じくらいの熱量であたっていたのが、いわゆるファシリテーションというやつで、次の読書会での課題本に取り上げられたらしいので、参加の前にちょっと振り返りたい。

...

課題本には、実務でコンサルさんが使っている風のカタカナスキルが数多く紹介されている。これは議論に目的がある場合には有効だけども、ベルばら会のように、話すことそれ自体に意味があるような場では活用しづらい。
本書のファシリテータースキルが、江戸の剣術道場風のものであるのに対し、僕のやってきたものは野武士に近い。

えーと、例えば、「夫婦円満の秘訣は?」などの問いがある時、僕は「そもそも、ここで言う夫婦円満とは何か?」との問いかけをする。トルストイは幸福のカタチは大体同じって言ったけど、実は各人で幸せのカタチは違うかもしれない。野武士は型を気にしないゆえ、面白そうな方向にふわふわ流れていく。

基本的には、このふわふわに、乗っかっていただけると助かる。しかして、「そんな子どもだまし!」と感じる人も当然いて、僕は密かに「狂戦士おじさん」とか「キツネ憑き姉さん」など認定し、対策を講じる。

狂戦士おじさんは、正面からあたっても消耗するだけなので、注意をそらす。往々にして、狂戦士は何かに特化してて、話題がちょっとでも自分とこに行けそうなら「俺も俺も」となるので、即答できなそうな質問投げかけるとか。

キツネ憑き姉さんは、だいたい、偏愛しているものを語り終えればご満足いただけるので、へぇ〜とかなるほど〜とか言ってキツネが抜けるの待ってれば大体大丈夫。

つまるところ、話がつまらなくなるのは、
当たり前のことしか言わないか、議論が空中戦になるかのどっちかだと思う。

不倫はダメ!と叫ぶより、
不倫とは何か?と疑問符を打つ方がきっと楽しい。
こう疑問符を打てば、生物界における人間の位置、結婚制度の歴史、文化的差異、宗教の教義、不倫の傾向と対策。いろいろ話ができる。是非論は、また別の話だ。

当たり前のことしか言わないのは、受け入れられるか不安だから。当たり前のこと言っとけば、とりあえず異質なものとして弾かれることはないから。
議論が空中戦になるのは、自分を認めて欲しいと焦るから。他人の意見を聞く余白がなく、自分が溢れているから。

つーことで、あぁ、何話しても大丈夫なんだ、と安心感を持ってもらうことと、空中戦から地上に降りて余白を作ってもらうことに、僕は意識を向けている。多分に、スキルより心意気寄りのやり方であるため、他人にオススメはできない。

こうして文章化しておるのも、けっこー後付けで、実際は何も考えず本能でやってる。よくない。

ドラマ嫌われる勇気の、モブキャラ本当に嫌いなんですけど。

ドラマ「嫌われる勇気」を観た。正直なところ出来がイマイチだと感じたので切ろうと思うけど、冒頭の一シーンについてあれはどうなの?って思うので書きとめたい。

子どもが泣いている。限定品のショートケーキが残り1個で、並んでいる順番が後の方だから。「あたしのケーキ!」と泣いている。
前の方の人は気を使い、別のケーキを注文するが、嫌われる勇気を持った香里奈は、迷わず自分が食べたいショートケーキを注文し、周囲から白眼視される。子どもはまだ泣いている。「あたしのケーキ!」

...

所有権の根拠について、古典的にすぎるが、ロックの労働説をとりたい。あなたがそれを所有する権利を持っているのは、土地を開墾するなど労働の対価として、だ。
つまり、ケーキがそんなに食べたいなら、早い時間から並べば良い。労働すればよい。対価を差し出さずに何かを得ようというのは権力の行使であり、感じ悪い。

子どもについては確かに、労働を行うだけの素地が固まっていないから、子どもの権利条約などで子どもであることのみを条件として、教育や適切な生活環境が与えられるよう、保護されてはいる。しかしそれは、他者の利益を害してまで絶対的に与えられるものかといえば、そうではない気がする。

そう、子どもに何を与え、何を我慢させれば、その子のためになるかを考えるべきなのは、大人だ。保護者何やってんの?ということと、子どものエゴを助長しようとする周囲の人ら何やってんの?むしろ何故、香里奈恨んでんの?

それは、「俺がこんな残業してんのに、あいつは早く帰りやがって」とルサンチマン決め込む、日本社会がかかえる根の深い病理と同じじゃないか。「私は子どものためにケーキ我慢したのに、なんで食べてんの」本気でそう思っているなら、生き方を考え直した方が良いと思う。何も努力せず欲しいと泣けば欲しいものが手に入ると習慣化された子どもが、どんな大人になるか。

ということで、香里奈が嫌われる理由が理解できなかったし、むしろゾンビのごとく無感動で思考しないモブキャラ達に非常な不快感を抱いたので、僕にアドラー心理学はとりあえずインストールする必要はないらしい。「このプログラムはすでにインストール済みです。」

断片的なものについて

『断片的なものの社会学』読書会に参加した。本書に載っているそれぞれの断片にともかく感動しきりだった。

たとえば、異性装者のブログ。男の人が女の子の格好で写っている。そこには何のエクスキューズもなく、日々の雑感とか、ニュースにただ感想を書いたりとかされた文章に、普通の女の子が写真を載せるように、異性装の方の写真がアップされている。

ある種の信念を持って、それをやっていたら良い。「なんでそんなことしてるの?」とその方に質問して、(本気できょとんとして)「え?」て顔されたらさらに良い。

...

個性的であることは、普通たるマジョリティから常に暴力にさらされることであって、とてもつらい。だから予防線をはる。「ストレスがあって」とか「小さなころから自分の性に違和感があって」とか。

そうして予防線をはることで、その人の個性は、マジョリティからの「寛容さ」によって「許される」。「疲れてるのね」とか「そんな生き方もアリだよね」とか。

そんな社会は貧しい、と思う。

なんでただそこでやりたいことをして、誰にも迷惑をかけていないのに、マジョリティの「寛容さ」にすがって「許され」なきゃならんのか。ただそこに在るだけで良いじゃんか。
この人が、そんな信念を持っていたら格好良いし、そんなこと思いもよらずただそこで異性装をしているだけだったら、素敵すぎる。

こーゆうとこに感動できるうちはまだ大丈夫だと思う。読書会でここの部分での感動を分かち合えるというのは豊かなことだ。

普段の生活はラベルに満ちていて、我々はそのラベルに見合うよう過剰適応しているので、いざただの人になったとき、話ができない。
たとえば、電車で隣に座った人に、最近育ててる植木鉢の話とかできない。

異性装の方が生きる、あるいは生きようとしている社会は、たまたま隣に座った人と、植木鉢の話ができる社会かもしれない。なんか、良い。