xshimmyのブログ

日々の雑感を書いています。

人見知りとコミュニケーション

原点を振り返ってみた。

 

高校のころ、クラスの最後に作る文集で、「クラスメイトに一言」的なページがあった。
だいたい、「もっと話したかった」とか「ありがとう」とか、無難なことが書かれるアレだ。
そのページに、【話しかけてくれてありがとう】という一言をもらったことがある。それを書いてくれたクラスメイトは、静かに1人で教室にいることの多い人だった。
確かに、話しかけた覚えはあった。
ほとんど無意識に。
今でもわりと、一体感のある空間に入れてない人とかいると、話しかけたりしてしまう。そういう人に気付く時点で、一体感の空間に没入できない自分がいるわけで、それはキモいことなのかもしれないけれど、まあ楽なのだ。何かと。

 

僕は、自意識では、人見知りだと思っている。
要するに、自分1人では、コミュニケーションの「ゲーム」を支配することができないと思っている。
以下、吉田尚記『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』に沿ってこのゲームのルールをみると、

・敵味方に分かれた対戦型ゲームではない。参加者全員による協力プレー
・ゲームの敵は「気まずさ」
・ゲームは複数人が集まった時に「強制スタート」(ex.エレベーターで鉢合わせ)
・ゲームの勝利条件は「楽しくなったら」

 

昔から、こういった「ゲーム」に没入できなかった。どうしてもメタ視点が外れず、「この話はどこにつながっていくのだろう」とか、「いったいこの集まりは何なのだ」とか、そんなことを考えがちなのだ。だから20代中盤くらいまで、ホント申し訳ないことに周囲をバカにしがちだった。逆に、自分より「上」っぽい集まりに行くと、うおーってテンション上がって舞い上がりがちだった。自分だけは周囲と違うと思い込んでいたし、それに気づかないくらい周囲が見えていなかった。

 

しかし、【話しかけてくれてありがとう】の一言は、ずっと残っていたのだと思う。
人見知りで、一体感のなかに没入しきれないからこそ、そこに入っていない人に気付く。


つーか、集団からちょっと外れたところで、2~3人とかでワイワイやるのが好きだ。

 

僕のゲームでのキャラはカウンター型なので、相手がしゃべってくれてナンボなのである。何かフックになりそうな話題さえつかめれば、それをもとに広げることができる。パスもわりに好きである。逆にドリブル(自分の話で駆け上がること)は苦手。あるコンテンツが好きであることを伝えることはできるけれど、自分そのものについてはそんなに話したいこともない。

 

ルールをすげー順守する。

 

だから、サッカーなのにボールを手に抱えたまま走り続けるプレーヤーとか、そういう人をどうしようとか考えていた時期もあったのだけど、もうそれは、「分かり合えない」。OSが古すぎて、あるいは違いすぎて、なまなかなアップデートでは追いつかない。アプリ全然使えない。仕方ない。それはその人自身の人生の責任である。

 

という、振り返り。

『巌窟王』について

巌窟王モンテ・クリスト伯)』を図書館で借りて読んだ。まだ半分だけど、メチャクチャ面白い。あらすじは、無実の罪で投獄されたエドモン・ダンテスが、自分を陥れた連中に復讐していく話なのだけども、さまざまな要素が入っている。

 

■脱獄もの
基本的に物語は、A地点からB地点への移動である。それは物理的な場合もあるし、精神的な場合もある。その移動に際し、さまざまな障害が発生し、それを乗り越える時に面白さが生まれる。
脱獄は、当然に監獄なので、物資・情報が圧倒的に不足している。物資が不足しているのは、ノーアイテムでボス戦に挑むようなもので、その辺にあるものを様々に工夫せねばならない。また情報が不足しているから、想定外のケースが生まれる。床を掘り進めていったら岩、なんてことが起こる。
吉村昭『破獄』など脱獄ものの最たるものだが、もはや最期は看守と脱獄犯の心理戦であった。『巌窟王』は前半はエドモン・ダンテスの一人称なので、彼の変わっていく心理、期待と絶望の動きにドライヴ感がある。

 

■師弟関係
その監獄で、彼はファリア神父に出会う。神父もまた、無実の罪で投獄されている。時代はフランス革命期、王侯派かナポレオン派か、二つしか選択肢のない時代。しかも、白か黒があっという間に反転する時勢。ファリア神父はダンテスより数年前から投獄されていた(ちなみにダンテスは14年投獄されることになる)。ファリア神父はレオナルド・ダヴィンチ的な天才で、あらゆる言語、あらゆる学問を体得している。神父からいろいろなことを教わり成長していくダンテス。師弟関係は同性同士だから、余計なノイズや重力(恋愛要素とか)が生じず、ただ純粋に道を二人で行くような感じがして良い。

 

■RPG⇒サイコロゲーム
このように、前半部は言ってみれば衝撃の序幕(無実の罪での投獄)と、RPGゲームにおける「レベル上げ」によって構成されている。目標に向かって地道に努力することで、自然に結果がついてくるRPGゲーム要素。そこから、現在はジュマンジ的なサイコロゲームの時代になったりもしている。言うたら運ゲーなのだけども、ジュマンジでもそうであるように、これは運命をサイコロに委ねつつ、その中で最大限生きるという、人生そのものに他ならない(ジュマンジのパート1もジャングルに閉じ込められて少年は十数年生き延びる!)。脱獄を果たし最高度にレベルを上げ、さらにファリア神父の遺した遺産(財力)も手に入れたダンテスは、しかし、チートが通用する単純な社会ではなく、社交界という複雑怪奇な世界にいる敵に復讐せねばならない。
我々は出会う人を選べない、サイコロの出目のように気まぐれな出会いのなかで、新しい関係を築いていくしかない。ダンテスは最高度にレベルが上がっているけれども、忍耐強く、復讐を果たすまでこのサイコロゲームを乗り切らねばならない。

 

という、前半部だけで相当な厚みとエンタメ性を持った大作である。

 

復讐はどういった理由によって正当化されうるか、という問題もある。
「そんなことしても元には戻らない」という正論に対し、何か言えることがあるのか。
巌窟王は、自分を陥れた者たちに、単純な死は望まない。自分が苦しんだ期間(14年!)と同程度の苦しみ、その間に失ったものと同様の喪失、これを望んでいる。
そしてまた、それを行うことによって自分が墓に入る覚悟もできている。
ここまで来ればこれは、一つの正義ではないか。
そんな問いかけもある。

文系の読書会について

土曜日はアウトプット読書会(『プロ倫』)に参加してきた。サポのみなさん、ご一緒したみなさん、ありがとうございました。

翌日曜日のこととセットで考えてみる。その日、KEK(高エネルギー加速器研究所)が一般公開されていたので、てくてく見学に行った。素粒子量子力学、対称性、電子ビーム。がちがちの理系的研究を、研究者の方々がすげー丁寧に教えてくれる、ありがたきイベントである。NIMS(物質・材料研究機構)に行った時も感じたのだけども、理系の分野は質問をすると「的確な」答えが返ってくる。プロだからそうなのかもだけど、現在までに分かっていること・これから分かるかもしれないこと、の区別がはっきりした上で、その分野のことについて情熱をもって分かりやすく教えてくれる。

いわゆる文系の読書会は、こういったものとはちょっと違う。文系学問はいかようにも解釈できる余地が「ありそう」に見えるため、「的確な」答えが返ってくるとは限らない。その人自身の見方・想いが答えにのっかってくる。またその人の勉強の仕方と世界観により、当該課題本の一般的な位置づけとは異なる特異な解釈が出て...くることもある。それは読書会の面白さでもあり、ある意味での煩わしさでもある。

わざわざ休日に集まっているわけなので、なるたけ面白い方向にしたい。

KEKでいろいろな研究者の方に質問し、お話して、「あぁ、僕っぽい」と思ったりした。というか、僕が理系っぽいのかもしれない。ある研究とか、自分の想いとは別のところにある客観的なモノ・コトに対して、的確に理解できたときに面白さを感じると同時に、それらについて熱意を持って話ができたときにテンション上がる。

だから、ちょっと偉そうになってしまうのだけども、読書会はその人ごとの想いと、客観的なモノ・コトを分離し、想いの部分は想いの部分で受け止めつつ、客観的なモノ・コトについて共通の理解が必要だと思う。いちおう自分でも勉強していくけど、もうホント分からん課題本の時などちょっときつい。

イヤーしかし、当該読書会に50回参加していた事実には愕然とした。毎月1回コンスタントに出ていても、4年以上かかる。まずもって続いていることがすごい、関係者の方々に感謝である。僕もどこまで参加できるか分からないが、どの分野でもそうであるように読書もまた続ければ続けるほど楽しさがにじみ出てくる分野なので、なるたけやりたい。

最後の言葉は、分かる人にだけ分かれば良いと思っている。

「よろしくで~す」

『聲の形』について

以前にマンガの『聲の形』感想は書いたのだけども、今日改めて映画を観て、気づいたことなど。

石田くんは西宮さんのことを、「最強の敵」だと思っていた。小学生の彼にとって耳が不自由な西宮さんは退屈な日常における異物である。しかして、たいがいの物語において「最強の敵」は自分自身だ。るろ剣の志々雄真は剣心が幕末に捨ててきた負の部分だったし、ドラゴンボール魔人ブウは孤児として地球に送り込まれた悟空が成りえた可能性の1つだった。

石田くんはガキ大将だったが、それは「クラスメートの欲望を体現する存在」だったからだ。だからクラス全体で、「いじめ最悪」の空気になった時、その最悪を体現していた石田くんは排斥された。西宮さんもまた、「死にたい」という感情さえも隠して、にこにこ笑っているような女の子だった。ただしその、周囲の欲望が分からなった。ゆえに、石田くんは西宮さんにアドバイスをする。「もっとうまくやらないとダメだろ」と。

...

石田くんと西宮さんはまっすぐな線でつながっている。冒頭シーンの、シャーペンのようにか細い線だけど、それでも折れずにつながっている。西宮さんもまた、世界とつながろうとしている。びしょびしょに濡れた、悪口がたくさん書き込まれたノート。西宮さん自身の願いと、映画ではカットされていたけれど子どもの障害を理由にシングルマザーになったお母さんや常に姉を気にかけるゆづるの想いもこもっている、大切な世界とのつながり。「わたしはこのノートを通じて、みなさんと仲良くなりたいと思っています」。その言葉はクライマックスシーンで生きることになる。石田くんが昏睡する意識のなかで西宮さんと交流した言葉は「筆談」である。

あと、石田くんが普段着のTシャツで、ずーっと首元後ろのタグが出っぱなしになっていたのは、やはり小学生時分のことが後ろめたかったからではないか。言ったことは消えない。やったことはなかったことにできない。どんなにしんどくても、そこから新しい関係を築いていくしかない。

また、この作品の良いところの1つは、多様性でもある。
登場人物のそれぞれがそれぞれに、弱さを持っている。
上野さんは、とても正しい。「あたしはあなたのことを理解しようとしなかった。でも、あなたもあたしのことを理解しようとしなかった」だから、お互い嫌い同士だけど、「手打ちにしよう」という彼女のストレートさは、一番西宮さんと向き合った人だから言えることかもしれない。けれどもその正しさは、人を傷つける。そしてそのことに対し、彼女自身も傷つく。
川井さんは、石田くんが橋の上でそれぞれに一番傷つく言葉を吐くシーンがあるのだけど、そこでは「お前はお前が一番可愛いだけだろ」と言われる。ここがマンガだと、「お前が一番キモチワルイ」になっている。辻村深月『鏡の孤城』において、ヒロインの娘をいじめていた女の子のメンタリティが一番近いと思う。強固すぎる世界観ゆえ、他者との交流による変化がまったくない。これはどこかで致命的に崩壊しやすい。けれどもまあ、千羽鶴を折ってきたから許そう。千羽足りなかったけど。

まあなんか、語りたいことが次々に出てくる作品で、世界がちょっとばかり優しくなるようなお話だと思う。マンガを読んでいたので敬遠していたけれども、さすが京都アニメーションであった。

『未来のミライ』について

未来のミライ』観てきた。
メッセージは「くんちゃん(4歳児)は未来ちゃんのお兄ちゃんになる」だった。

冒頭、未来ちゃん(正確にはお母さんが帰ってくる)が来るのを窓際で待つくんちゃん。季節は冬で、窓に息を吹きかける彼の行動は、『この世界の片隅に』ですずさんが「よっこいしょ」と荷物を背負い直すシーンと同じく、この子は単なるキャラクターでなく、ここに生きている、という感覚を抱かせた。所々の動き、感情の機微など、かなりリアルな表現であった。

...

くんちゃんは、それまで愛情が自分に集中していたのに、それを未来ちゃんに奪われたことに「嫉妬」する。そして彼が自我を獲得し「未来ちゃんのお兄ちゃん」になるまでに、未来、過去、現在をめぐる、不思議な体験をしていく。

細田作品では、わりに早いシーンで、物語のモチーフが登場する。『サマーウォーズ』ではキング・カズマの話題が最初に出てたし、『バケモノの子』では渋谷の電光スクリーンに鯨がでていた。今回は、未来ちゃんがまだ名前がない時、お父さんに赤ちゃんの名前どうする?と聞かれたくんちゃんが「のぞみ!」または「つばめ!」と叫んだところ。

つばめは、ラストシーン近くで登場する。「のぞみ」の方は、中盤でばあばとお母さんの会話で出てくる、すなわち「この子たちには幸せになって欲しい」という望みに通じている。またそうした望みは、お父さんが建築家のため、彼らの住居が、家族の在り方に合わせて変化していくことでも具体化される。くんちゃんが不思議な体験をする、中庭も後で作られたものだ。

中庭はつまり、ウチとソトとの境界だ。
くんちゃんは、雪が降るのを「ふしぎー」という。それと同じテンションで初見の未来ちゃんを「ふしぎー」という。びっくりするくらいの「幼児」なのである。自分と世界との境界は曖昧だし、他者というものがよく理解できない。これまでの細田作品では、核家族とか、片親とか、極端な話孤児とか、そうした状況のなかでいかに家族的なつながりを持っていくかだった。従来の作品群と比べて抜群に恵まれた環境にいるくんちゃんは、しかしこの中庭を必要としていた。

未来ちゃんが来たことで、ユッコが「その感情が何か教えてあげましょう、ずばり『嫉妬』です」と表現したもや~っとしたものを昇華するために。当初「くんちゃんかわいくないの」とベソをかいていたところからひいじいじと馬やバイクに乗って「かっこいい」に対する憧れを持つところまで成長するために。「僕は未来ちゃんの、お兄ちゃん」という自覚を持つために。

細田守作品、今まで観てきてよかったー、と感じられる映画であった。見ようによってはわがままなだけなので、くんちゃんを「好きくない」ためにこの映画を忌避される向きもあるかもしれない。けれど僕は言いたい、あんた方は細田作品の何を観てきたのかと。

ストローお通ししてよろしいですか?

「ストローお通ししてよろしいですか?」
………ついに飲食店にも来たか、と思った。床屋でシャンプーをしてもらっている時「お痒いところはございませんか?」「いいえ、大丈夫です」としか答えようのない、アレ。
ストローがいるかどうかに対し、「はい」以外の答えがあるだろうか。それともこれは、近年マイクロプラスチックごみの問題が持ち上がっているから、「ストローは結構です。魚たちのことを想うととてもストローなんて使えません」と答えるべきなのか。意識の高さを試されているのか。だとすれば、「はい」以外に答えを持ち合わせない僕は、まさに低脳先生である。

ストローどこにあんの?と質問されることがあまりに多いことの予防策か、うまく差せない人がよほど多いのか、これが出てきた背景がまったく分からない。ストローに注目させることには成功している。おかげでマイクロプラスチックごみのことを想起できた。イヤーでもこの選択肢だとストローお願いしちゃうばかりだから、ごみを減らすならプラスチック有料化かいっそストロー出さないとかだよねぇ。

...

僕は、人に何かやってもらうのを、すまねぇな、と思うタイプだ。拳闘連盟会長的なおもてなしとか受けたら、ホントいたたまれない。ある部族によっては、返礼の義務があるなかで返せないほどの贈り物を渡して相手の名誉を傷つけ、従属させる「ポトラッチ」なるやり口があるらしい。贈与論。とすれば、ストローを差してもらう贈与に対する見返りは、なんなのだろうか。この、生産性のない僕に、飲食店は何を求めているのか。

実は最近、タイ、韓国と、出張や旅行で海外に出た。新婚旅行以来である。すべての店舗ではないにせよ(特に韓国ではがんがん売り込みにきた)、お客に対する良い意味での無関心さが心地よかった。お金を介することによる、純粋な経済的交換。そこから見ると日本には、ある種の妖怪がいるような気がする。贈与ほどバリバリに感情を交えた交流でもなく、貨幣を伴った制度的関係でもない、中途半端な「ストローお通ししてよろしいですか?」。文法は間違っていない。TPOもわきまえられている。けれども何となく、異界への入口のような違和感。

謎である。

ファインディング・ドリーにみる家族

映画『ファインディング・ドリー』を観る。

ドリーは、常に「現在」を生きている。忘れっぽい特性のため、少し前のことでも次々に忘れていってしまう。そんなドリーはしかし、何かを探し続けていた。それが、あらゆることをきっかけに、幼い頃にはぐれた両親を探していたのだと気づく。

 

両親を探す道中、海洋保護センターに行き着くドリー。そこには、何か欠けた動物たちが集まっていた。足が一本欠けたタコ、目がよく見えないジンベエザメ、自身の特技がうまく使えないシロイルカ。なかでも、過去が、記憶が、次々になくなっていってしまうドリーはかなり致命的な欠けっぷりであるのだけども、彼ら彼女らが少しずつ、互いに補い合うことで、前に進むことができる。

 

感動的なのは、ドリーの両親の教育である。

ドリーの両親は、ドリーの忘れやすい特性について、それを障害だとも個性だとも言っていない。ただ、彼女に合わせた、生きる力を身に着ける方法を徹底して教えていた。そして、その方法を彼女が実践できると信じていた。何年も。

 

ある種の障害を、それもその人の個性だ、という論調がある。

ファインディング・ドリー』を観て、障害自体が個性なのではなく、障害を持ったその人自身の個性について改めて考えるきっかけになった。ドリーは、過去の経験を蓄積して分析して選択肢を検討することは苦手だけども、「現在」をしっかり生きているから、その場の発想力と行動力はずば抜けていた。そのドリー自身の力によって、結果的に両親を見つけることができた。

 

また、物語の後半において、彼女の「家族」は拡張する。

血のつながりでなく、また趣味趣向でもなく、ただ「好き、離れたくない」という感情によってつながった「家族」。

先に書いた、何かが欠けていた動物たち。特に、足が欠けたタコは、あるトラウマに支配されていた。そのトラウマを植え付けられた場所に、きせずして放り込まれた時、タコを救ったのは自分が常に助け続けていたと思っていたドリーである。現実的な危機からだけでなく、「海になんか出ずにずっとびんの中で穏やかに暮らしたい」という、タコの心すらも、ドリーは救ってみせた。

 

みんな、どこか、何かが、欠けている。

そんなもの、なんでもない。

だって、ドリーは、両親を見つけたのだから。

欠けたものは補い合えるし、別の選択肢は常に開かれているのだから。

そうしたことを、エクスキューズなしに信じあえる者同士が家族なのだとしたら、きっとそれを拡げていくことができる。

その一歩を、ドリーが教えてくれる。