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xshimmyのブログ

日々の雑感を書いています。

沈黙ーサイレンスー

例によって『沈黙』について。
よかった。なんというか、「問いかけ」に満ちている感じがよかった。
奉行所の役人は言う。「ただの形式だ。ちょっと踏めばよい。少しなでるだけでもよい。それ以上は問わぬ。さあ、踏んで自由になれ」そう、僕なぞは、踏み絵は形式であって、内心の信仰とはまた別なのだから、踏んでも良いじゃないか、と思ってしまう。(まあ、踏み絵をした人も、パードレ(司祭)を【転ばせる】ためにあっけなく拷問にかけられたりしてしまうのだけども)

それは「強さ」なのか。死をも恐れず信仰を続ける姿勢はキリスト教が求める殉教なのか。炎で焼かれ、縛られたまま海に放り込まれ、頭に血が上って死なないよう首筋に小さな傷をつけられ血を滴らせた状態で延々逆さ吊りにさせられることが?

...

キチジロー(窪塚洋介)は、何度も踏む。「お前はクリスチャンじゃないだろ」と奉行所の役人に蔑まれるほどに。彼の家族は殉じた。彼の村の仲間も殉じた。それでも、イエス・キリストにだいぶ寄せた顔だちのキチジローは、生き汚く生き延びた。そしてロドリゴの処に何度も何度も告解に来る。俺は弱い。俺は罪深いと。いろんな処で言及されるとおり、キチジローは遠藤周作マーティン・スコセッシ自身だと言うのならば、キチジローと殉教者たちの違いはどこにあったのだろう。

沼。キリスト教の種が根づかないで腐る、底深い日本という沼。
平戸の領主と4人の側室の例えもそうだけど、小説『沈黙』は抜群の比喩に満ちた、聖書の教えのような雰囲気のある作りだった。その小説の魅力を忠実に再現し、スコセッシの宗教に対する感性(彼の『クゥンドゥン』とか好きだった)がうまい具合に小説と化学反応を起こしていた。良き映画だった。

近頃の世の中、「解説」が多すぎる。
『サピエンス全史』の下巻にあったけど、歴史は必然ではないし、過去のその時点ではあらゆる方向に行く可能性があった。にも関わらず時代の先にいる我々は、「なぜそれが起こったか」についてそれっぽい解説をし、なんとなく納得している。よくない。頭使っていない。

調べれば調べるほど、味の出るタイプの映画だと思う。

言葉と、その人

漫画『深夜のダメ恋図鑑』。男は生物学的に浮気するもんなの、とか本気で言うような、まあダメな男たちをひたすらディスる漫画である。

そのディスのうちの一つで、イヤそれは違うんじゃないか、というのがあったので、書いてみる。

中級程度の英語能力でオレできる自慢をする男に対し、「そんな日本訛りの英語でよく恥ずかしくないね」的な意見を述べるシーン。

...

イヤ、恥ずかしくないんじゃね?と僕は思う。
イタリア系、アイルランド系、アフリカ系。みなそれぞれのルーツを持っている。訛りは、言葉遣いは、その人やその人の家族、先祖が抱く故郷や故国につながる大切なものかもしれない。言葉遣いを否定することはその人のルーツを汚すことであって、いかがなものか、と感じる。

英語を母国語として使う人たちをネイティヴとし、そのネイティヴに近い発音ができることで自身の優位性を誇示し、「日本訛り」を蔑む行為。先にメリル・ストリープが「権力者に差別を肯定させたら、我々の敗北だ」と言った状況である。

『アデーレ 名画の帰還』なる映画では、「私はオーストリアの言葉ではなく、英語で話したい」という女性が主人公になっている。オーストリア系の彼女はナチスによって、家族や友人を奪われ、そうした行いを許した祖国を憎悪している。かつて家族や友人や恋人とささやかで大切な話をしたはずの母語を、唾棄するほどの憎しみと哀しみ。楽しかった素晴らしかった思い出よりも、憎悪と悲哀を呼び起こすようになってしまった母国語を、彼女はけっきょく喋らなかった。

ことほど左様に、言葉はその人の根幹を成すものの一つである。確かに彼氏が、オレ英語喋れる自慢をするのはいただけないかもしれない。売り言葉に買い言葉かもしれない。しかして言葉遣いでもってその人を蔑むのはよくない。

欧州からの宗教難民たちが創ったアメリカなる国は、ネイティヴアメリカンを虐殺し、血みどろの独立戦争南北戦争を経験し、奴隷制と向き合ってきた。ウッドロー・ウィルソンの頃から、アメリカは世界に介入し、理念を広げようとした。すでにイギリス、フランスが世界のほとんどを植民地化していたから、理念でもってそれらを解体する必要があった。たぶんに打算と計算があったものの、アメリカの理念は、「各地の母国語訛りの英語」を許容してきたように思う。

日本語訛りの英語、というわけで、別によいじゃないか。ちなみに、その彼氏とは別れた方がよいように思う。

ベルばら会回顧談

1年前の今ごろ。
僕はベルサイユのばら読書会を開いていた。
当時は少女マンガに情熱を傾けていたが、現在ではちょっと冷静になり、冷静と情熱のあいだ風のテンションで少女マンガを読んでいる。

同時期に、同じくらいの熱量であたっていたのが、いわゆるファシリテーションというやつで、次の読書会での課題本に取り上げられたらしいので、参加の前にちょっと振り返りたい。

...

課題本には、実務でコンサルさんが使っている風のカタカナスキルが数多く紹介されている。これは議論に目的がある場合には有効だけども、ベルばら会のように、話すことそれ自体に意味があるような場では活用しづらい。
本書のファシリテータースキルが、江戸の剣術道場風のものであるのに対し、僕のやってきたものは野武士に近い。

えーと、例えば、「夫婦円満の秘訣は?」などの問いがある時、僕は「そもそも、ここで言う夫婦円満とは何か?」との問いかけをする。トルストイは幸福のカタチは大体同じって言ったけど、実は各人で幸せのカタチは違うかもしれない。野武士は型を気にしないゆえ、面白そうな方向にふわふわ流れていく。

基本的には、このふわふわに、乗っかっていただけると助かる。しかして、「そんな子どもだまし!」と感じる人も当然いて、僕は密かに「狂戦士おじさん」とか「キツネ憑き姉さん」など認定し、対策を講じる。

狂戦士おじさんは、正面からあたっても消耗するだけなので、注意をそらす。往々にして、狂戦士は何かに特化してて、話題がちょっとでも自分とこに行けそうなら「俺も俺も」となるので、即答できなそうな質問投げかけるとか。

キツネ憑き姉さんは、だいたい、偏愛しているものを語り終えればご満足いただけるので、へぇ〜とかなるほど〜とか言ってキツネが抜けるの待ってれば大体大丈夫。

つまるところ、話がつまらなくなるのは、
当たり前のことしか言わないか、議論が空中戦になるかのどっちかだと思う。

不倫はダメ!と叫ぶより、
不倫とは何か?と疑問符を打つ方がきっと楽しい。
こう疑問符を打てば、生物界における人間の位置、結婚制度の歴史、文化的差異、宗教の教義、不倫の傾向と対策。いろいろ話ができる。是非論は、また別の話だ。

当たり前のことしか言わないのは、受け入れられるか不安だから。当たり前のこと言っとけば、とりあえず異質なものとして弾かれることはないから。
議論が空中戦になるのは、自分を認めて欲しいと焦るから。他人の意見を聞く余白がなく、自分が溢れているから。

つーことで、あぁ、何話しても大丈夫なんだ、と安心感を持ってもらうことと、空中戦から地上に降りて余白を作ってもらうことに、僕は意識を向けている。多分に、スキルより心意気寄りのやり方であるため、他人にオススメはできない。

こうして文章化しておるのも、けっこー後付けで、実際は何も考えず本能でやってる。よくない。

ドラマ嫌われる勇気の、モブキャラ本当に嫌いなんですけど。

ドラマ「嫌われる勇気」を観た。正直なところ出来がイマイチだと感じたので切ろうと思うけど、冒頭の一シーンについてあれはどうなの?って思うので書きとめたい。

子どもが泣いている。限定品のショートケーキが残り1個で、並んでいる順番が後の方だから。「あたしのケーキ!」と泣いている。
前の方の人は気を使い、別のケーキを注文するが、嫌われる勇気を持った香里奈は、迷わず自分が食べたいショートケーキを注文し、周囲から白眼視される。子どもはまだ泣いている。「あたしのケーキ!」

...

所有権の根拠について、古典的にすぎるが、ロックの労働説をとりたい。あなたがそれを所有する権利を持っているのは、土地を開墾するなど労働の対価として、だ。
つまり、ケーキがそんなに食べたいなら、早い時間から並べば良い。労働すればよい。対価を差し出さずに何かを得ようというのは権力の行使であり、感じ悪い。

子どもについては確かに、労働を行うだけの素地が固まっていないから、子どもの権利条約などで子どもであることのみを条件として、教育や適切な生活環境が与えられるよう、保護されてはいる。しかしそれは、他者の利益を害してまで絶対的に与えられるものかといえば、そうではない気がする。

そう、子どもに何を与え、何を我慢させれば、その子のためになるかを考えるべきなのは、大人だ。保護者何やってんの?ということと、子どものエゴを助長しようとする周囲の人ら何やってんの?むしろ何故、香里奈恨んでんの?

それは、「俺がこんな残業してんのに、あいつは早く帰りやがって」とルサンチマン決め込む、日本社会がかかえる根の深い病理と同じじゃないか。「私は子どものためにケーキ我慢したのに、なんで食べてんの」本気でそう思っているなら、生き方を考え直した方が良いと思う。何も努力せず欲しいと泣けば欲しいものが手に入ると習慣化された子どもが、どんな大人になるか。

ということで、香里奈が嫌われる理由が理解できなかったし、むしろゾンビのごとく無感動で思考しないモブキャラ達に非常な不快感を抱いたので、僕にアドラー心理学はとりあえずインストールする必要はないらしい。「このプログラムはすでにインストール済みです。」

断片的なものについて

『断片的なものの社会学』読書会に参加した。本書に載っているそれぞれの断片にともかく感動しきりだった。

たとえば、異性装者のブログ。男の人が女の子の格好で写っている。そこには何のエクスキューズもなく、日々の雑感とか、ニュースにただ感想を書いたりとかされた文章に、普通の女の子が写真を載せるように、異性装の方の写真がアップされている。

ある種の信念を持って、それをやっていたら良い。「なんでそんなことしてるの?」とその方に質問して、(本気できょとんとして)「え?」て顔されたらさらに良い。

...

個性的であることは、普通たるマジョリティから常に暴力にさらされることであって、とてもつらい。だから予防線をはる。「ストレスがあって」とか「小さなころから自分の性に違和感があって」とか。

そうして予防線をはることで、その人の個性は、マジョリティからの「寛容さ」によって「許される」。「疲れてるのね」とか「そんな生き方もアリだよね」とか。

そんな社会は貧しい、と思う。

なんでただそこでやりたいことをして、誰にも迷惑をかけていないのに、マジョリティの「寛容さ」にすがって「許され」なきゃならんのか。ただそこに在るだけで良いじゃんか。
この人が、そんな信念を持っていたら格好良いし、そんなこと思いもよらずただそこで異性装をしているだけだったら、素敵すぎる。

こーゆうとこに感動できるうちはまだ大丈夫だと思う。読書会でここの部分での感動を分かち合えるというのは豊かなことだ。

普段の生活はラベルに満ちていて、我々はそのラベルに見合うよう過剰適応しているので、いざただの人になったとき、話ができない。
たとえば、電車で隣に座った人に、最近育ててる植木鉢の話とかできない。

異性装の方が生きる、あるいは生きようとしている社会は、たまたま隣に座った人と、植木鉢の話ができる社会かもしれない。なんか、良い。

「赤い国」とグッバイ・レーニン

『セカンドハンドの時代 「赤い国」に生きた人々』が面白い予感しかしていない。1917年に革命によって生まれ、1991年にペレストロイカによって滅びた国、ソ連。70余年に及ぶ壮大な社会実験は、そこで生きた人々にどんな人生を与え、どのような感性を残したのか。祖父が銃殺され、父が数十年も収容所から帰ってこないことが日常になっている国でおとずれた、突然の「自由」。配給でぼろぼろの靴下しか手に入らなかったのが、外資のオシャレな靴下を「買うことができるかもしれない」可能性が広がったこと。そうした状況に耐えきれず、スターリンを信奉する若者。対して、ソ連崩壊後情報公開してみたら、信じていたトロツキーが「え?○○町から餓死の報告?いや、ローマがエルサレムを攻めたとき、母親がわが子を食べるとかあったじゃん。そーゆうことがあったら初めて“餓死”って言えるんじゃないの?」とか公文書で言っていたりしたことを知ったかつての赤い国を生きた人々の心情。

僕は『グッバイ、レーニン』とかいい映画だなぁって思っていて、けっきょく国とか制度とか民族とかみんなフィクションなんだけど、その...フィクションによって生きる人たちって確実に存在しているし、しているんだけど、でもそこで生きている人たちのことをあんまナメなって思ったりする。

なんかこう、本と映画って相乗効果的なところがあって、この本を読み始めたときにばっちり『グッバイ、レーニン』的なあれこれが浮かんできたんだけど、だいぶ前に観たやつだから記憶曖昧で、その曖昧な感じが読書の邪魔にならず、良い感じの感受性の補完になってくれたりした。この本が面白いなぁと感じれたのには、いろんな積み重ねがあったからだと思う。

感受性が強い人もたくさんいるけれど、僕の感受性はけっこう後天的に得たものだった。自分でもこの前、『ファンタスティック・ビースト』を観て泣いたのにはびっくりした。本と映画は、人にもよるだろうけども、触れるのであれば、なるべくたくさん触れるべきだ。たぶん、中途半端はよくない。メジャーなものもマイナーなものも、高尚なものも低俗なものも、とにかく分け隔てなく。その結果として得られるものは涙もろい感性と、いろんなことを楽しめる呑気さいう、なんとも非合理的なものであるが、悪くない。実に悪くない。『ベイマックス』や『横道世之介』にじ~んとする年末は良き年末だったし、『クリーピー~偽りの隣人~』にびくっとする年始は良き年始だった。映画観るし、本を読むぞー。どんどん行くぞ~。

女子のことが分からないまま、僕は29歳になった。

ジェーン・スー『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』によると、女子はある種のソウルであって、社会経験や小金や鈍感性を身に着けた女性陣が「わたしたちって、女子!」と主張することはある種の暴動だということを言っていた。かわいいもの、ふるふるした不安定感、何かを愛おしいと思う感受性。“少女性”のようなもの。その少女性を脱ぎ捨てられない刺青のように背負い、隠れキリシタンのように生きる存在が女子であると。

 

僕は29歳になり、後悔していることがある。

 

『少女マンガ』を読んでこなかったことだ。現在、22歳くらいで新卒の子を選ぼうとすると、良い!と思う子はだいたい女の子らしい。様々な要因はあるだろうけども、一つには少女マンガを読んで他人の気持ちや、コミュニケーションの在り方の英才教育を施されてきたこと、もあるらしい。(女子友だち談)

 

男子と違うよなぁと感じるのは、軍隊が特にそうだけども、男子は集団になると同質性を重視する。集団の大目的に沿わない発言や行動をとると、ビンタされる、みたいな。女子は一見、同質性を求めているようで、実は“個”を保ったうえで密なコミュニケーションをとっている。だから少女マンガで、主人公女子以外の取り巻きの娘にも、サイドストーリー的に彼氏とのあれこれが描かれたりする。

 

よく、少女マンガは好きだのキライだのの、恋愛模様だけじゃん、何が面白いの?という批判がある。それは少女マンガの一側面でしかなく、歴史、ファンタジー、SF、性的マイノリティ、伝統文化。男子マンガが粗雑に切り捨ててきた分野を拾い上げ、前述の“少女”たちをわくわくさせてきた少女マンガは必読レベルのものが多いし、できれば10代くらいの頃に読んでおきたかった。

 

そう、僕は少女のことが分からないまま、29歳になった。

それは少女マンガを読まないまま29歳になった、という意味と同義であり、遺憾に思っていることの1つだ。今年はその辺を補完したい。