シミーのブログ

好きなもの。読書会、少女マンガ、人文系、宇宙、社会学、ノンフィクション、、、と、好きなものを羅列していけば何かがつかめる気がしています。ブログは主に世の中に対するぼんやりとした主張です。よろしくお願いします。twitter @koro81k

『鬼滅の刃』って面白いよねって話

鬼滅の刃』1シーズンアニメを23話観た。だから、コミックスで言うと6巻の中間くらいだ。楽しかった点を書いてみる。

 

舞台は大正自体の仮想・日本。この仮想・日本には人を喰う鬼が存在していて、その鬼を狩る鬼殺隊なる部隊がいる。主人公の炭次郎は、家族を鬼によって惨殺され、唯一生き残った妹も鬼化してしまうが、「妹を元に戻す方法を見つけるため」「もう家族のような犠牲者を出さないため」「復讐するため」に、猛烈な修行を経て鬼殺隊に入隊する。

 

面白いなぁと感じるのは動機の部分で、鬼の方は、すべての鬼の元祖たる鬼舞辻無惨という大ボスがいる。現時点で感じるこの大ボスの根源には、「不安」がある。不安が彼のすべての行動の元になっているので、少々の批判があるとそれに耐えきれず、メッチャ攻撃的になる。鬼が基本的に群れない、という習性を持つのも、すべての鬼がこの鬼舞辻の血を分けた存在であるとこにも起因していて、不安とか恐怖とかによって鬼の自己が確立しているので、群れない・のではなく・群れられない、のである。相互不信がありすぎてつながれない。

 

さて、主人公の炭次郎。彼の技の基本にあるのはその「呼吸法」なのだけれど、これが「家族を殺された怨み」を刺激されると、当然に乱れる。呼吸は浅くなり、炭次郎が才能を見出された時に言われた言葉、「考えろ」もできなくなる。つまり、鬼側の動機と同じになる。怒りと憎悪と不安。同じ動機だと、経験値と修行が足りない彼は鬼に勝つことができない。

 

ここで、重石になるのが彼の妹である。鬼化した妹は、鬼としての本能(人を喰う)に抗い、ギリギリで人間の側に踏みとどまっている。妹の、兄に対する絆だ。彼女がいることによって炭次郎は、「彼女を守らなければ」「もう彼女のような犠牲者を出すわけにいかない」という、人間側の希望を背負って戦うことができ、「呼吸」の乱れも戻して戦える。だから、炭次郎のここまでの戦いは、技術・パワーのぶつけ合いというより、精神力の戦いだった。鬼側と同じ動機に引きずられたら、単純にパワーの強い方が勝つわけで、未熟な炭次郎が勝つには希望と絆が必要だった。

 

というのが、19話「ヒノカミ」まで。

 

大ボスの鬼舞辻には、当然に側近がいる。12の鬼たち。炭次郎の希望と絆の話は、この側近までには届かない。希望と絆だけでは到らない。結局、この側近を破ったのは鬼殺隊の“柱”(=神の数え方だよね)と呼ばれる精鋭たちだ。鬼を殺す専門機関なので、柱たちは、やはり鬼たちに強烈な憎悪を抱いている。だから、柱のほとんどは、炭次郎が鬼を連れていることを認められない。

 

世界Aと世界Bがある時、当然に、グラデーションがある。境界があって、壁があって、すべての人がその線引きの内側におさまるわけではない。越境者がいるし、境界を行く者がいる。鬼なのに人間の方につく者がいれば、人間なのに鬼に味方する者もいるだろう。物語を駆動させていく上で、炭次郎と妹は世界Aと世界Bの間で揺れるわけだけれども、今後は炭次郎は、自身と理解者だけでなく、非・理解者(鬼殺隊のエリートたち)に証明していかなければならない。必ずしも、最初から自分を好意的に受け止めてはくれない相手との、対話。ようやく、社会に出るわけだ。

 

カタチとしては『鋼の錬金術師』に似ているけれど、ハガレンエドが最初から錬金術師としての能力がMAXだったので、主にエドと弟の心の成長譚であった。『鬼滅の刃』は素朴に体力・技術が未熟なので、先のような精神の成長と一緒に新たな技なども身に着けていくと思われる。これは流行るなぁ、確かに。

「ダメ人間」とは何か

みなさんそれぞれに、ダメ人間観、がある。逆に言えば、どういう人間がダメか、というところに、その人の人間観があらわれるんじゃないか。

 

たとえば、不倫はダメだ!と叫ぶ人がいる。不倫は、字そのままで言えば、倫理に悖るってことだけど、その倫理は何かってことは人によって分かれる。多数派は、モノガミーの結婚観、つまり1人の人をずっと愛し続けるべきだし、同時に何人もの愛人を作るってのは倫理にもとる、不倫だ!ダメ人間め!って意見だ。ただ、これはポリアモリー、同時に何人もの人を愛する人の性を無視した在り方で、当人同士が同意しているなら別に良いじゃん、的な見方もある。白樺派の重鎮、武者小路実篤は愛人がいて、ついでに言うと妻の方にも愛人がいて、それでも二人で愛し合っているんだから「放っとけ」的なことを言った。まあ、どう思うかは勝手である。

 

現代は、「とりあえずここだけは踏み込んじゃダメだよね」って暗黙の合意が崩れ、本音をぶちまけることが良しとされる時代だ。トランプ、ジョンソン(英)、ドゥテルテ(フィリピン)、ボルソナロ(ブラジル)。あいちトリエンナーレ言うところの「情の時代」の、情の部分が強くて、近代以降の人間観、理性>感情、が崩れてきた。

 

だから、情の時代ど真ん中の人にとってみれば、ダメ人間は、理屈っぽくしたり顔でつまんねーことを言いふらす売国奴である。

 

理屈っぽくしたり顔でつまんねーことを言いふらす売国奴たる僕は、ダメ人間は、「何かに過剰に寄りかかってるヤツ」だと思っている。その何かは、ストーキングしてる対象だったり、酒だったり、金だったり、国だったり。何にも寄りかかるな、とは言わない。ただ、寄りかかる対象をもっと分散させないと、自立してるなんてとても言えないと思うのだ。

 

でも、「薬やめますか、それとも、人間やめますか」なんて表現をする気もない。依存症の人は、人間をやめている、わけでは決してない。ハームリダクション、って言葉が最近あって、つまり、薬や酒やギャンブルなど、依存している対象に近づいてしまう「きっかけ」から離れましょう、ってことだ。刑務所にいると、薬や酒やギャンブルに近づく「きっかけ」がそもそもない環境だから当然、依存症にはならない。でも、出所すると、依存先に近づくきっかけに満ちている。これから離していかないと、依存状態からは抜け出せない。

 

分かる人にだけ分かれば良いんですが、これは、最初の劇場版のエヴァで、シンジが綾波と溶け合う幸福なセカイでなく、アスカに「キモチワルイ」とか言われちゃう世界を趣向した感覚に近いもんです。

「話しても分からないヤツ」はわりとたくさんいるので、コミュニケーションは基本、絶望。

コミュニケーションは絶望から始まる。僕の声は相手に届かないし、相手の声も、僕には届かない。良識派の犬養元首相は「話せばわかる!」と信じていたけれど、2010年代も終わりに近づいて分かってきたのは、「話しても分からないヤツは確実に存在する」って事実だった。

 

今までと違うのは、その、「話しても分からないヤツ」が俺の私の話を聞け、と、他人に対して押し付けるようになってきたことだ。たぶん彼ら彼女らもまた、抑圧されていた。立場の強い弱いに関係ない、心のうちにある、コンプレックスの問題である。立場が弱くとも、きっちり自分を持っている人はこんな風にならない。立場が強くとも、その自信の元が貧弱なのであれば、話が通じず自分の話を他人に押し付けようとする、ネチッこい人間になる。

 

今までは、階層ごと、同じ共有体験を持つ同士ごとにクラスタで分かれていたのが、現代社会はよくも悪くも流動性が高まったので、交通事故のごとく話の分からないヤツに遭遇することも増えてきたわけだ。

 

僕はもう、この辺は諦めた。話が通じないヤツは確実に存在するし、こーゆうヤツからは距離を置くしか対策がない。僕はこいつの身内でも友だちでもないから彼の彼女の人生に責任は持てない。他人なのだ。どこまでも。

 

けっきょくのところ、他人の言葉で自分が変わる、なーんてことはない気がしていて。自分を変えるのはあくまで、自分が発する言葉なんじゃないだろうか。

 

道でぶつかって相手に乱暴な言葉をぶつけられてそれが外国人っぽかったりすると「くそ中国人が!」とか、思わず言ってしまうような時。その、自分が思わず発してしまう言葉に、普段はリベラルを気取っていたとしても、潜在的な、どうしようもない差別意識が見えちゃったりする。それを自覚することから、自分が始まったりする。

 

相手からかけられる言葉は、だから、自分が変わるための言葉を発するための、起爆剤には、なりうるかもしれない。相手の言葉に賛同することを言った・相手の言葉に反発することを言った。どちらも、自分の心のうちを自覚する契機になる。この契機がないとそもそも、どこをどう変えたら良いかもわからないのだから。

 

話が通じないヤツとは、こうした、自分を変える言葉に気付かない連中である。彼ら彼女らはしなやかな自信がないので、自分をガチガチに固めようとする。現在の自分を強化するために汚ねー言葉を吐き続ける。その先にあるのは孤独と、薄汚いコンプレックスだけだ。

 

嗚呼、なんとヘイトに溢れた投稿だろうか。。。

電車の中で足を広げる人と、優先席でのヘイトと。

電車内はパブリックだ。公共だ。もちろん、JR、私鉄ともに、民間の営利企業だけど、不特定多数の人がそれぞれの目的(地)を目指し、バラバラに何となく寄り集まっている。機能としては、公共である。

 

こと日本においては、公共の場は、我慢の場所だ。公園ではボール投げをしちゃいけない。バーベキューもいけないし、煙草も吸えない。公共だから何をしても良い、ではなく、公共の場だから私的領域とは違って身勝手なふるまいは許されない。なんて日本的な感覚だろう。事実、電車内で電話とかしてて、ふとそっちを見ると、外国人だったりする。外国人なだけで、誰も注意しない。外国人はこうした日本の公共性から免除されている。だからそもそも、外国人を日本の公共の場に入れない、みたいな発想が出てくる。「あいつらは秩序を乱すんだ」とか言って。

 

さて、同じく電車内で、足をでーんと1席半くらい伸ばして座っている人などがいる。女性だと小股が見えてしまうので、たいてい、雑な感性っぽい男性である。先の、公共の場では身勝手なふるまいは許されない、って暗黙のルールからいくと、この人の行いは目に余る。

 

でもちょっと考えてみると、別に、足を二人分開けて座らないこと、って明文化されているもんでもない。公共の場を、別に各人が自由にふるまって良い場、って考え方と捉えると、まあ彼は自由に振るまっているわけで、構わないんじゃないか、って見方もできる。

 

ただし、公共の場において自由に振る舞って良い、には、条件がある。

「人に迷惑がかからない限り」

ガラっがらで、座る人がそんなにいない環境下なら、彼の行為は是認できる。けれど、狭い車内で、座りたい人が座れない状況だと、とたんに、彼の行いは悪になる。

 

ということで、彼の行いは、人に迷惑がかかっているからダメなのであって、迷惑がかかっていないなら足を広げたってかまわない。

 

先日、優先席に生理痛で座った女性が、隣に座った老人に、タブレットで「ここに座んな○○」とヘイトを向けられたことがニュースになっていた。この老人の理屈は、「優先席は座る者が決まっている(老人・妊婦・障害者)。なぜ、お前がここに座るのか」というモノだ。ただ、優先席は、「お気持ち」である。譲り合いの心の奨励である。決して、誰かのための席ではない。それやったらアパルトヘイトだし、人種差別と同じだ。

 

公共の場は、誰のものでもない。だから、何をやっても良いって考えもあるし、何もしちゃいけない、って考えもある。それは、「人に迷惑をかけない限り」である。この老人は、誰にも迷惑をかけていない女性に対し、ヘイトをした。許されざる者だ。

 

まあなんか、人が多すぎますよね、根本的に。

「痩せたねぇ、癌?」と気軽に言い合える友だち

日曜にやってる「僕らの時代」ってテレビで、リリー・フランキーが往年の監督と俳優の会話を語っていた。「丹波ちゃん痩せたねぇ、癌?」とか言い合って、ゲラゲラ笑っている。なんかこう、こういう雰囲気は、いいなぁ、と思う。

 

歳をとることでしか、分からない痛みがある。身体的にもそうだし、精神的にもそうだ。病気にもなりやすくなる。もちろん若くたって病気になるし、病気っていうのは「病気じゃない自分」から「病気である自分」に強制的に移動させられる現象で、可能性がご年配より開かれ気味の若者にとって、可能性を狭められるそれは、特にしんどいことかもしれない。

 

年齢を重ねると、経験値が増える。経験値が増えるってことは、それまでに見えてなかった選択肢が見えるってことだ。若い時のように行動でぶつかる前に、事前に、予想できる。予測できる。もしもそうした予想ができないような歳の取り方をしていたら、ちょっと生き方を考え直した方が良いかもしれない。いずれにしろ、そうした状態で病気になると、病気後のことが、うすぼんやりわかる。わかるから、受け入れる準備もできやすい。

 

そして、そうした準備ができていると、他人の痛み、病気についても、なんとなく察せられる。さらに、察した上で、病気になった他人を「病人」として扱わない。「友だちが」癌になってる、って見方をする。「癌になった」友だち、ではない。友だちを、病人って枠に押し込めない。その友だちの生き方・人間と付き合いを続けて、彼の彼女の病気をその友だちの一部として受け入れる。

 

もちろん、この関係が家族であるとか、そういうことによって、この受け止め方は違う。家族だともっと深刻かもしれない。けれど、前述の丹波哲郎と某映画監督のような関係だったら、病気のことをネタにして笑い合うくらいが良い。だって、友だちなのだもの。

 

ものすごく近い人(家族とか)や、ものすごく遠い人(病気のことだけを通じてその人を知った人)だけが、シリアスな感じになる。まあ、もちろん、互いの気持ちを推しはかった上で笑い合っても良いんだけど。とあれ、友だちは、ものすごく近くもものすごく遠くもない、ちょうど良い距離感にいる、人間関係だ。だから、笑い合える。ああ、俺の時は死ぬかと思ったよ、みたいなカタチで。

 

そう、病気がその人の人生を確定させるわけじゃない。「病人」という人生を送ってる人はいない。その人の人生に、病気がくっついてくるケースがあるだけだ。だから、友だちだから、病気を笑い合える関係が、いいなぁ。

なんちゃってマナーを蔓延らせるのはもうやめようって話

なんちゃってマナー、というものがある。かつては細木数子が「墓石に水をかけるなんて言語同断、あんた死ぬわよ」的ななんちゃってマナーを宣っていたが、彼女の論拠には根拠がない。仏陀が言った?最澄空海日蓮法然がそんなこと言った?言ってないよぉ。亡くなった人も大事だけど、生きている人が亡くなった人に想う気持ちが・大事だ。墓石ができたのはそもそも近世の後期くらいからで、つーかその前は古墳とか、ある程度身分がある人じゃないと墓ってなくて、だから、今を生きる僕らが大切に、扱いを決めて良い。

 

マナーは、ある程度、人間関係が円滑になる制度。明文化されていないけれど、要は、「我々はこういう態度であなたに臨むので、あなたも、我々の期待に沿うように行動してくれたまえ」ってことだ。予測可能性。僕は動物とか苦手なんだけど、それは、アルパカとかいつ唾を吐くかとか予想ができないからで、予想ができないと、人は不安になる。だからマナーは、そうした予測可能性を、空気みたいにふわっと制度で整えたものだ。柔軟性のない人ほど、マナー違反=自分の予想を裏切ること、に対してキレる。

 

でも、もうそういうの、平成で置いてきませんか。

 

飲み会の場所で、サラダを取り分けるとか、そういうの、もう良いでしょ。嫌いなものってあるし、なんならアレルギーだってあって命の危機になる食材だってあるんだから、各自でとりなよ各自で。

 

ひどいのは、その人がその人だけの信念体系で創り上げる、なんちゃってマナーを人に強制することだ。いちおう、僕らはいま、多文化社会に生きている。心の中で、何を思おうと自由だが、他人に強制してくるのは許しがたい。そういう社会。でもそういう社会においても、自分の信念体系を拡散したい人っていうのは存在していて、それがマナーって衣を被せてきたりする。

 

いわく、徳利のクチが切れている部分を相手に向けるのは、相手との「縁」を切るという失礼な行為にあたるので、酒を相手につぐ時はその切れ目を相手に向けないようにしろ、とかね。いや、謝れ。徳利を人が使いやすいように工夫してきた職人たちに謝れ。

 

しかし、自分が慣れない場所に行くと、どう振る舞って良いかが分からず、そこで指針を示してくれるモノに、何となくすがりたくなる、という気持ちも分かる。何はともあれ、隣の人を真似るのが無難だから。けれど別に、「その場にふさわしいふるまい=マナー」ってのは、実在しない。夏目漱石だって、近代的自我のために墓に小便をかけた。気持ちなのだ、要は。自分がどう在りたいか。

 

というわけで、なんちゃってマナーは、平成に置いてゆけ。

「ブラック」の定義を考えてみる。

ブラック企業、ブラック部活、ブラックバイト。ブラックな場所が増えた。「一寸先は闇」とか言うけれど、一寸ちょっと先が闇だったらもうすでに闇じゃね?すなわち世の中だいたい闇≒ブラックじゃね。

 

このブラックって、イメージはいろいろできる。理不尽なシゴキ、デスマーチ、法令違反、人権侵害。。。ただ、定義っていうと、人それぞれな気がする。人それぞれなので、まあ、定義は必要ないってことかもしれない。

 

なので、あんまり深くは考えていないんだけど、ブラックって、シンプルに「思想信条の自由を認めないこと」なんじゃないかなぁ。独裁体制下でも、たとえば中国みたいに、ある程度の経済発展を遂げた場所ではうっすら自由度があったりする。逆に、日本のような民主主義と言われている国でも、世間的にアウトな言動をしたら袋叩きにされて自由にできないってこともある。自由には責任が伴う、ってことかもしれないけれど。

 

だから、ここで言うブラックは、独裁などのような体制とはちょっと違う。

もっとこう、ねっとりしたもの。

例えるなら、『クリーピー~偽りの隣人~』のごとく、何故かその人の精神を浸蝕していって、抵抗できないようにする。そんで、異常性格者本人は、自分では手を下さない。支配下にしたヤツにやらせる。手を下した人はそれに手をつけることによって、もう抜け出せなくなる。

 

組織には、組織の論理がある。個人の思惑を超えたところで蠢いている思想がある。この思想が、個人個人の「思想信条」を浸蝕し、理不尽なことにも従順に従うようにしていった時、ブラック企業・ブラック部活・ブラックバイト、は生まれる。

 

えてして、こうした組織の支配者は、他の場面では優しいし、普通なんじゃないだろうか。24時間フルタイムで異常なのではなく、ブラック組織にいる間、支配者にも何か組織の化物がとりついて、それが他の人たちにも感染して、抜け出せなくなる。

 

だから。

 

イヤなものは嫌。ダメなものは駄目。と。しつこく主張し続けることって案外大事だと思う。もちろん、ある程度の折り合いは必要だけど、そんで主張したところで長く続いてきた組織の化物を倒すのは容易じゃないけれど、とにかく言い続ける。そうじゃないと、慣習の力は強いので、はじめは大したことない、自分の外側にあったものが、いつの間にか自分の心の内側まで黒く染めだしてしまう。

 

一寸先は闇、なんじゃない。自分の心の中に闇は入り込んでくる。

 

ブラックは、強い色だ。でも、負けない。