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xshimmyのブログ

日々の雑感を書いています。

女子の告白問題(連合を組んでくることについて)

僕は小学生の時分、女子から告白をされたことがある。別に何の自慢でもなく、たまたま小学生だった頃の僕は成長が早く、足が速かっただけの話である。ところで、その時に告白をしてくれた女子は、他の女子3名と連合を組んでいた。もじもじと想いを伝えてくれた女子の数メートル後ろで、日本代表のPK戦を見守るファンのような感じで友だちが祈りをささげていた。

 

おおかたの学園ものの少女マンガにおいては、取り巻きを作ってる少女の告白はたいがい主人公イケメンに拒絶されてしまう。その当時の僕は主人公でもイケメンでもなかったが、どうにも違和感がぬぐえず、やはり告白を断ってしまった。

 

その時の違和感が何であったか。

 

東村アキコ東京タラレバ娘』では、30代の女子たちが東京の居酒屋で、互いの恋愛事情に進展(もしくは著しい停滞)があった時、“第4出動”として報告会を行っている。

 

たしかに、いつでも恋愛は非日常であり、時には祝祭であり、また時には災厄であるかもしれない。それは緊急の出動を要する程度には、日常から離れた行為である。そして10代の少女がまさにその非日常の瞬間に連合を組み、30代の女子は連合を事後報告に留めるという違い。

 

これは弱さの質の問題だ。つまり、10代の少女は非日常を「自分1人で受け止めることが怖い」。30代の女子は非日常を「他人に知られるのが恥ずかしい、しかして済んだ後は誰かに聞いて欲しい」という。そして週刊少年ジャンプ派だった小学生の僕は、小学生女子が連合を組んで告白してくることは、ジャンプ的“勇気”がないものだと断じていた。本当はそんなこともなく、彼女たちはアニメや少女マンガにおいて恋愛を十分にシミュレートした上で、シミュレートしたからこそ、それを愛おしみつつ恐れることができる、賢い娘たちだったのだろう。

 

これがいつの間にか、恐れ→恥、に転換してくるのが、10代~30代への変遷だと思う。恋愛は怖く、かつ、ちょっと恥ずかしいものでもあるかもしれない。その恋愛のどこに注目するかは、その人の経験や世界観によるだろうけども。

紅白歌合戦 雑感

紅白歌合戦を観ていて、改めて宇多田ヒカルTHE YELLOW MONKEYはすごい、と思った。


宇多田ヒカルは『花束を君に』

出だしの「普段からメイクしない君が薄化粧した朝」。すなわち、自殺した実母、藤圭子の葬儀にあたっての死に化粧である。実母が亡くなるまでの過程は宇多田ヒカルがインタビューなどで語っているけども、おそらく何を話せば良いか、どうすれば良いか、途方に暮れている間に、突然に唐突に、彼女は命を絶ったのだろう。

 

「どんな言葉並べても 真実にはならないから 今日は贈ろう 涙色の花束を君に」

大切な人が亡くなることは誰にとってもつらい。だから我々は亡くなる人との別れを後悔で終えないために対話を重ねるし、一緒に様々なことを体験しようとする。準備する。心の置き場を。しかして宇多田ヒカルに、そうした準備はできただろうか。

 

「言いたいこと 言いたいこと きっと山ほどあるけど 神様しか知らないまま」

たぶん、何も言えなかった。けれども宇多田ヒカルは30代にして、これほどの曲を歌っていた。藤圭子に似た歌唱を時に見せながら。

 

THE YELLOW MONKEYは『JAM』

 

「外国で飛行機が堕ちました ニュースキャスターは嬉しそうに 「乗客に日本人はいませんでした」 僕は何を思えばいいんだろう 僕は何て言えばいんだろう」

 

この曲が歌われてから十数年経っても、残念なことに日本は、まだこの曲が必要とされる感性のままだった。「日本人が死んでいないなら、外国人が何人死のうと他人ごと」の感性のまま、日本人は国際社会の孤児で在り続け、それを直視するのはいたたまれないから辺境の地(辺境って日本そんなに世界の中心じゃないけども)に日本人妻探しに言ったりニッポン大好きな外国人にインタビューしたりして自慰してる。

 

星野源RADWIMPSも良かったけども、この二組の歌を聴けただけでも、今年の紅白は良い感じだった。