xshimmyのブログ

日々の雑感を書いています。

ヘッセ『デミアン』について思うこと

本書は「明るい世界」と「もう一方の世界」で揺れるエーミール=シンクレールの少年期から青年期までの内面を描いている。エーミールという名前からはルソーが連想される。場所柄、彼の周りはキリスト教(たぶんカルヴァン派)っぽいので、ルソーの自由な雰囲気に対する憧憬もありそう。

本書の題名にもなっている、シンクレールの友だちデミアンは、シンクレールにカインとアベルの新説を紹介するなど、従来のキリスト教観を揺さぶる。まんまニーチェである。アベル的集団(弱い側)がカイン的集団(強い側)に理由なく略奪され蹂躙されるとき、アベル的集団は善悪の観念を生み出す。つまり、「我々は道徳的にカイン的集団より優れているが、奴らは野蛮なので、我々を襲うのだ。愚かな奴らめ」という。

...

弱者たちによる、強者に対するルサンチマン。それがキリスト教の価値観の根源だとすれば、そもそも価値の根拠ってないんじゃね?というニーチェは、後に永劫回帰と超人の概念を生み出す。

まあしかし、シンクレールの苦悩はどうやら超人方向に向かなくて、夢分析マジックリアリズム的な雰囲気を醸し出す。

いや、ちょっと走り過ぎたので周辺から整理していくと、まず「明るい世界」は父を中心とした善良で無害な場所である。従来のキリスト教的世界なのだが、この宗教は「告解」がわりにポイントになってる気がしていて、というのは仏教やイスラム教などに比べて、がんがん内心に踏み込むんだよね。だからシンクレールは、「りんごを盗んだ」(またこれが、りんごなのだ)という「嘘」すなわち内心の罪に対して、懊悩する。告解できない、罪を抱えたままでいることの苦しみ。

「もう一方の世界」は、悪童クローマーたちが生きている、汚くリアリスティックな世界である。デミアン(つまりデーモン悪魔)は一見、こちら側っぽい。ただなあ、デーモンもまた「明るい世界」を成り立たせるための影とみると、この、地上そのものである「もう一方の世界」に住む者とも言いがたい。

のちに、デミアンは、シンクレールが視る夢と、現実のつなぎ役みたいなことをやる。(エヴァ夫人の解説など)。結果、小説のなかで起こっていることが夢なのか現実なのか曖昧になる。ヘッセは、ノーベル賞受賞前後(彼の作家人生における後半)にはマジックリアリズムの魁とも言える作品を書いている(らしい)。シュールリアリズムがもっぱら自己認識と現実との間の歪みに注目するのに対し、マジックリアリズムはその歪みそのものこそ現実である、という感性にもとづく。夢みたいなものこそリアル。

最初、僕はデミアンはシンクレールの内面そのもので、明確な他者としては存在してないんじゃないか、と思っていた。映画『スプリット』の多重人格の1つ、「ビースト」みたいな感じで。クローマーはデミアンに言われてびびったのでなく、シンクレールの別人格にびびった。また、席替えのシーンでも、デミアンは実在しないので、教師も注意をしなかった、など。

ともかくも、実在感が乏しいデミアンであるが、彼はラストシーンで、戦争の知らせを持ってくる。

またしてもニーチェにいくと、ニーチェキリスト教的裏付けのなくなった世界において(神は死んだ)は、永遠にあらゆることが繰り返される状態を受容する精神が肝要と言った。超人になれってことだった。西欧からみたオリエンタルな東洋思想なのだが、本書において、東洋の象徴たる「日本人」はデミアンによって退けられている。

そんで、シンクレールが最後に感じるのは、従軍した戦場での「痛み」であった。