xshimmyのブログ

日々の雑感を書いています。

岸政彦『断片的なものの社会学』

あらゆるものごと、営みが、「物語」に吸収されてしまう。それは1つの暴力だと思う。その人自身の、何にもならない、誰ともつながらない、「断片的」なものにこそ輝きが生まれる。そのことを、本書は教えてくれる。断片的に。

 

「かわいらしい」とは、生きていることだ。女子は、または、女子的マインドを持った男子は、「かわいいー」をうまく使いこなせる。そこには理由はいらないし、エクスキューズもない。一方、僕ら男性は、何かを無条件で愛することができない。人と人との間に、「かわいらしいもの」を挟んで、「沈黙」を退けることができない。

 

なんということだ。

 

たとえば、異性装の方が書いている(と思われる)ブログ。そこには、日々の雑感が、「日本の政治は腐ってますね。」などのボヤキが、ごくごく普通につづられている。明らかにおじさんの、「異性装」の写真とともに。いや、いいですよね、これ。

この方が、あえてそうしているならば、恰好良い。「あたしがこのような恰好をしているのはごくごく普通のことで、わざわざそれに対して他人に弁明する必要なんかない」という信念のもとにやっているケース。

いやいや、この方は、そのような信念など考えたこともなく、「普通」と「異常」の境界なんか目もくれず、ただ思ったことを普通にブログに書いているのだとしたら、もっと良い。日本という国に、こんなにも多様性に対して寛容な場所があるのか、と、誇れる。「差別を乗り越えるということは、ラベルについて「知らないふりをする」ことではなく、「ラベルとともに生きる」ということ」だ。このような異性装者の方と、ともに生きることだ。

 

あるいは。私たちが持っている幸せのイメージは、いろいろなカタチで、それが得られない人々への暴力になる。結婚、子ども、仕事、居場所、家族。

だから、完全に個人的な「良いもの」なんかがあると良い。石とか好きだと良い。

他人との接触は、基本的には苦痛である。他人が作る「○○さんという人の物語」に取り込まれると、境界が曖昧になる気持ち悪さがある。それを否定するだけの根拠も、内省したって出てこない。けれど逆に、他人との接触が気持ち良くなるケースもあるから、不思議だ。コミュニケーションは、自分をさらけ出すから成立するのではない。自分は、ブラックボックスのままで良い。すべてを告白し、啓発する必要なんかない。ただその、各人のブラックボックスをそのままに、認め合い分かち合う。それで良いじゃんか。断片的で良いじゃんか。完全に分かり合う必要なんかないのだ。