xshimmyのブログ

日々の雑感を書いています。

『未来のミライ』について

未来のミライ』観てきた。
メッセージは「くんちゃん(4歳児)は未来ちゃんのお兄ちゃんになる」だった。

冒頭、未来ちゃん(正確にはお母さんが帰ってくる)が来るのを窓際で待つくんちゃん。季節は冬で、窓に息を吹きかける彼の行動は、『この世界の片隅に』ですずさんが「よっこいしょ」と荷物を背負い直すシーンと同じく、この子は単なるキャラクターでなく、ここに生きている、という感覚を抱かせた。所々の動き、感情の機微など、かなりリアルな表現であった。

...

くんちゃんは、それまで愛情が自分に集中していたのに、それを未来ちゃんに奪われたことに「嫉妬」する。そして彼が自我を獲得し「未来ちゃんのお兄ちゃん」になるまでに、未来、過去、現在をめぐる、不思議な体験をしていく。

細田作品では、わりに早いシーンで、物語のモチーフが登場する。『サマーウォーズ』ではキング・カズマの話題が最初に出てたし、『バケモノの子』では渋谷の電光スクリーンに鯨がでていた。今回は、未来ちゃんがまだ名前がない時、お父さんに赤ちゃんの名前どうする?と聞かれたくんちゃんが「のぞみ!」または「つばめ!」と叫んだところ。

つばめは、ラストシーン近くで登場する。「のぞみ」の方は、中盤でばあばとお母さんの会話で出てくる、すなわち「この子たちには幸せになって欲しい」という望みに通じている。またそうした望みは、お父さんが建築家のため、彼らの住居が、家族の在り方に合わせて変化していくことでも具体化される。くんちゃんが不思議な体験をする、中庭も後で作られたものだ。

中庭はつまり、ウチとソトとの境界だ。
くんちゃんは、雪が降るのを「ふしぎー」という。それと同じテンションで初見の未来ちゃんを「ふしぎー」という。びっくりするくらいの「幼児」なのである。自分と世界との境界は曖昧だし、他者というものがよく理解できない。これまでの細田作品では、核家族とか、片親とか、極端な話孤児とか、そうした状況のなかでいかに家族的なつながりを持っていくかだった。従来の作品群と比べて抜群に恵まれた環境にいるくんちゃんは、しかしこの中庭を必要としていた。

未来ちゃんが来たことで、ユッコが「その感情が何か教えてあげましょう、ずばり『嫉妬』です」と表現したもや~っとしたものを昇華するために。当初「くんちゃんかわいくないの」とベソをかいていたところからひいじいじと馬やバイクに乗って「かっこいい」に対する憧れを持つところまで成長するために。「僕は未来ちゃんの、お兄ちゃん」という自覚を持つために。

細田守作品、今まで観てきてよかったー、と感じられる映画であった。見ようによってはわがままなだけなので、くんちゃんを「好きくない」ためにこの映画を忌避される向きもあるかもしれない。けれど僕は言いたい、あんた方は細田作品の何を観てきたのかと。