xshimmyのブログ

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『巌窟王』について

巌窟王モンテ・クリスト伯)』を図書館で借りて読んだ。まだ半分だけど、メチャクチャ面白い。あらすじは、無実の罪で投獄されたエドモン・ダンテスが、自分を陥れた連中に復讐していく話なのだけども、さまざまな要素が入っている。

 

■脱獄もの
基本的に物語は、A地点からB地点への移動である。それは物理的な場合もあるし、精神的な場合もある。その移動に際し、さまざまな障害が発生し、それを乗り越える時に面白さが生まれる。
脱獄は、当然に監獄なので、物資・情報が圧倒的に不足している。物資が不足しているのは、ノーアイテムでボス戦に挑むようなもので、その辺にあるものを様々に工夫せねばならない。また情報が不足しているから、想定外のケースが生まれる。床を掘り進めていったら岩、なんてことが起こる。
吉村昭『破獄』など脱獄ものの最たるものだが、もはや最期は看守と脱獄犯の心理戦であった。『巌窟王』は前半はエドモン・ダンテスの一人称なので、彼の変わっていく心理、期待と絶望の動きにドライヴ感がある。

 

■師弟関係
その監獄で、彼はファリア神父に出会う。神父もまた、無実の罪で投獄されている。時代はフランス革命期、王侯派かナポレオン派か、二つしか選択肢のない時代。しかも、白か黒があっという間に反転する時勢。ファリア神父はダンテスより数年前から投獄されていた(ちなみにダンテスは14年投獄されることになる)。ファリア神父はレオナルド・ダヴィンチ的な天才で、あらゆる言語、あらゆる学問を体得している。神父からいろいろなことを教わり成長していくダンテス。師弟関係は同性同士だから、余計なノイズや重力(恋愛要素とか)が生じず、ただ純粋に道を二人で行くような感じがして良い。

 

■RPG⇒サイコロゲーム
このように、前半部は言ってみれば衝撃の序幕(無実の罪での投獄)と、RPGゲームにおける「レベル上げ」によって構成されている。目標に向かって地道に努力することで、自然に結果がついてくるRPGゲーム要素。そこから、現在はジュマンジ的なサイコロゲームの時代になったりもしている。言うたら運ゲーなのだけども、ジュマンジでもそうであるように、これは運命をサイコロに委ねつつ、その中で最大限生きるという、人生そのものに他ならない(ジュマンジのパート1もジャングルに閉じ込められて少年は十数年生き延びる!)。脱獄を果たし最高度にレベルを上げ、さらにファリア神父の遺した遺産(財力)も手に入れたダンテスは、しかし、チートが通用する単純な社会ではなく、社交界という複雑怪奇な世界にいる敵に復讐せねばならない。
我々は出会う人を選べない、サイコロの出目のように気まぐれな出会いのなかで、新しい関係を築いていくしかない。ダンテスは最高度にレベルが上がっているけれども、忍耐強く、復讐を果たすまでこのサイコロゲームを乗り切らねばならない。

 

という、前半部だけで相当な厚みとエンタメ性を持った大作である。

 

復讐はどういった理由によって正当化されうるか、という問題もある。
「そんなことしても元には戻らない」という正論に対し、何か言えることがあるのか。
巌窟王は、自分を陥れた者たちに、単純な死は望まない。自分が苦しんだ期間(14年!)と同程度の苦しみ、その間に失ったものと同様の喪失、これを望んでいる。
そしてまた、それを行うことによって自分が墓に入る覚悟もできている。
ここまで来ればこれは、一つの正義ではないか。
そんな問いかけもある。