シミーのブログ

好きなもの。読書会、少女マンガ、人文系、宇宙、社会学、ノンフィクション、、、と、好きなものを羅列していけば何かがつかめる気がしています。ブログは主に世の中に対するぼんやりとした主張です。よろしくお願いします。twitter @koro81k

ボケは勇気、ツッコミは愛。ver.1.5

ボケは勇気だ。あえて常識から外し、他の人が思いもよらない領域に飛び込むことだから。

ツッコミは愛だ。常識から外れたボケを受け入れ、簡潔な説明によって異界から現世に戻すことだから。

 

みたいなことを、以前に書いた。

今回は、その改善版。

 

ボケは、ある意味で「オトす」ことだと思う。緊張と緩和でもあるけれど、ジェットコースターのごとく、高く落差があるほどスリリングで面白い。

 

いわゆる、パーティーピーポーは、なかなか「オトす」ことができない。人を笑わせることができない。彼ら彼女らは自分の世界で完結している、月の世界に行ったかぐや姫みたいなものだ。

人を笑わせること、「オトす」ことができるのは、自分が他の人より下にいると思っている人ではなかろうか。下にいる自覚があるから、登れる。そして崖下に「オトす」ことができる。

 

良質な「オチ」を求めて飛び込むこと。

 

そして、ストリーミングがスタンダードになった現代社会においては、笑わせる側も笑わせられる側も、我慢することができない。登って登って、大きなオチを得ることでなく、小さなオチをたくさん拾う。

 

ツッコミの愛のかたちも変わる。

笑いにおいて、「間」などは大切な要素であろう。また、ボケる側が登っていくのを、待つことも必要だ。愛のかたちの1つが待つことにあり、笑わせられる側が待つことができないのであるとするならば、ボケのスピードに合わせ、次々に言葉を紡ぐ必要がある。高速神言。

 

別に、見ている側が、待つ勇気を持てとか寛容になれとか、そんなことは言わない。時代には時代のスタイルがある。ポリティカル・コレクトネスが重視され、清く正しい言葉を選ばねばならない時代だからこそ、大量の言葉で笑いを生み出す風潮は、それはそれで良いことだと思う。

 

マジョリティの側が安全圏から発する、差別用語一発でどっかん!みたいな時代ではないのだ。

 

ボケの勇気のかたちは、大量の言葉を様々な配慮をしつつ大胆に打ち込むことに変わり、ツッコミの愛は、そうした言葉たちを共感を持って人びとに届けることに変わる。繊細すぎるという人もいるかもしれない。けれど、人と人がぶつかることはそもそも暴力的なことなので、繊細でありすぎる、ということはないと思う。