シミーのブログ

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哲学的ラッキースケベ

ラッキースケベという現象がある。主人公男子の意思に関わらず、周囲の女の子のスカートが風でめくれる、事故の不可抗力で胸を触ってしまう等のスケベ現象が、棚ボタ的に発生することを言う。

 

さて、そこには責任を問う際の根拠になる、意思が存在しない。意図してスカートをめくる、これは犯罪である。しかし、たまたまその現場に居合わせ、当該ラッキースケベ現象になんら関知していない場合。果たして彼の責任を問い、ビンタ等の制裁を行うことは正当であろうか。

 

中動態という、古代ギリシャ語でスタンダードだった動詞の態がある。現代の言葉、特に英語などは「する」「される」という、意思を持ってそれをするか・他からの意思によって何かをされるか、の二項対立だが、もっと古代では能動態と中動態の対立だった。意思を持ってある行為をし、その結果が完全に自分に帰着する能動か、結果が生じる過程も含め、自分のコントロールの外側で現象が完結する中動か。

 

僕らが、行為の責任を問うことができるのは、ある結果が起きた「後」に、あんたはある意思を持ってそれをやったよね、と見做すからだ。つまりは意思があると見なせない所に責任はなく、したがってラッキースケベ現象はその定義上、意思がないのだから責任は問えない。

 

ただし、ファンタジーにおけるラッキースケベ現象は、作者が意思を持って描いたものである。主人公男子はその場にたまたま居合わせたわけでなく、作者の意思を持ってその場に配置され、ヒロイン女子たちは作者の意思を持ってラッキースケベ現象にさらされている。

 

主人公男子が作者の投影であり、また読者の投影であるならば、そこに一抹の責任が発生するかもしれない。だから主人公男子はビンタを受けなければならない。そしてビンタ程度では溜飲は下がらないであろうヒロイン女子たちに引き続き詫びねばならない。

 

という、問題。

 

参考

 

二村ヒトシ、千葉雅也、柴田英理『欲望会議』

國分功一郎『中動態の世界 意思と責任の考古学』

名倉編『異セカイ系