シミーのブログ

好きなもの。読書会、少女マンガ、人文系、宇宙、社会学、ノンフィクション、、、と、好きなものを羅列していけば何かがつかめる気がしています。ブログは主に世の中に対するぼんやりとした主張です。よろしくお願いします。twitter @koro81k

少子化を憂う人を、憂う

「私は少子化を憂いています!」という人は、信用ならない。

彼ら彼女らは子どもが欲しいわけではなく、「小さい大人」が欲しいのだ。だから国力=人口、という図式と少子化がセットになっている。電車とかでうぎゃーって泣く子どもを、彼ら彼女らは欲しない。愛くるしいほどに動物な子どもたち。少子化を憂う人は、いったい何回おむつを替えたことがあるか。自分のおむつを替えてもらうことばかり考えているんじゃないか。

 

なーんて考えたのは、「LGBTというマイノリティを、マジョリティにするにはどうするか」と真面目に発言する人がいると聞いて。イヤ、それ、ユダヤ人や障碍者、性的マイノリティを根絶しようとしたナチスと同じだから。まあ、現代では「無自覚ナチス」とでも言えるかもしれない。差別主義者は自分が差別主義者だとは思ってもいないし、むしろ虐げられている被害者、国を憂う志士だと自認している。無自覚ナチス

 

ほんとね、人の性欲について強制されたり、逆に過剰に理解されたり。放っとけと思う。『きのう、何食べた?』でも、ゲイのシロさんの母親が、「職場ではカミングアウトしたの?大丈夫よ、受け入れてもらえるわ、勇気出して」みたいなことを言われていた。確かに実親からすると、息子が周りに受け入れられているか、不安なところではあろう。けれど別に、性的対象について話をしなくても、仕事はできる。隣の人の性癖など特段知りたくもない。

 

とにもかくにも、個別的な性癖について異性愛に矯正し、子どもを産み育てさせようという。こんなおぞましいことはないと思う。無自覚ナチスの人たちは、自分が弱い立場に立ったときも、同じことが言えるのだろうか。一人で歩けない、一人でご飯が食べられない、一人で家に帰れない。そうした弱者の立場になった時、自分たちの言葉が首を絞める。「弱者への配慮が行き過ぎだ」

 

そう、彼ら彼女ら無自覚ナチスも、配慮することそれ自体には反対はできない。

「LGBTは『増えてきている』」のだから(もちろんこの『増えてきている』は皮肉である。別に増えちゃいない。ただ、声を上げられるようになっただけで、LGBTの方はずっとそこにいた)。本音では、「浄化」したいのかもしれない。でもそんなことは流石に言えない。だから、配慮が「行き過ぎている」と政策を批判する。

 

………どこが?

 

マジョリティと、性的志向性自認が違うだけで、マジョリティがフツーに得られる権利が、いちいち闘わないと得られない。闘っても得られない。そうして闘っていると、一見して過剰な権利の要求のように見えて、「配慮が行き過ぎている」という印象になってしまう。

 

もうね、そういうのやめませんか。

 

僕ら日本人は、お弁当箱が好きだ。1億人という、途方もないほどの多様性を、「1億総中流」のお弁当箱にぎゅうぎゅうに詰めて、そこからはみ出すものを捨てようとしている。そして、スカスカのお弁当箱になることを恐れている。

 

僕らは弁当に詰められる具じゃない。