シミーのブログ

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ボーイ・ミーツ・ガール論

ボーイ・ミーツ・ガールのミソは、お互いがお互いにちょっと重なったかなとなったものの、やはり違う世界にそれぞれが進んでいくところにある。付き合い出したりしたらちょっと違う気がする。『君に届け』は「君に届いた」時点でボーイ・ミーツ・ガールではない。

 

新海誠の『秒速5センチメートル』が好きだった。あれはボーイ・ミーツ・ガールだ。お互いにちょっと分かり合えた感じでも、時間や、距離が、確実に2人の中に共有されていたモノを離していく。もうね、男の子のほうが引きずりまくって会社とか辞めちゃって、踏切で振り返ったらあの時のあの女の子が、と淡い期待を持って振り返っても「いない」っていうね。最高ですね。『君の名は。』は出会っちゃいましたからね。

 

ちょっと前に読んだ本だと、『ケイレブ ハーバードのネイティブ・アメリカン』が良かった。1600年代に、ハーバード大学の神学部に実際に在籍した記録があるネイティブアメリカンの少年と、厳格な牧師家庭の女の子との交流と、その後の別離の話。ケイレブは、先住民たちを圧倒した西洋の力を吸収し、彼らが生き残る道を探そうとしている。しかしそれは同時に、実力のある女の子を抑圧するような、理不尽な力の世界でもある。

 

最初、二人が出会ったとき、そして親しくなっていく過程には、確実に心の通い合いのようなものがあった。成長し、価値観が変わっても、その残滓のようなものはずっと引っかかっている。

 

よく、男女の恋愛になると、力関係が面倒くさい、という話になったりする。

ある種の力学が働くのだ。ご飯をおごるとか、リードするしないとか、尽くす尽くさないとか。どうしてこんな力関係が生まれてしまうのか。ボーイ・ミーツ・ガールものの良いところは、こうした力関係が発生する以前に出会っていることにより、より対等なつながりができて、そしてそれが「失われる」ことにあると思う。

 

人は、自分とは違う人間になろうとするのかもしれない。『ケイレブ』は、ネイティブアメリカンとしての名前ではなく、モーゼに付き従った弟子の名前だ。彼は違う人間になりたかった。でもそれは、ネイティブアメリカンの自分を・家族や同志を・救うためだった。だから彼が先に進んでいっても、女の子がかつての自分の、アンカーというか、灯台みたいに確実にそこに在るものとして、大切な存在だったのだ。

 

けれども当然、女の子の側も変わる。女の子もまた別に人間になろうとし、また別の世界に進んでいく。『秒速5センチメートル』は、物理的な距離もそうだったけど、その進んでいく速度が、ボーイとガールで異なっていた。女の子のほうは全然、秒速5センチではなかった。

 

お互いが違う世界に踏み込むその前、一瞬の分かり合い。

その後、進んでいった先で振り返ったとき、「あの時の自分」を思い出させてくれる灯台

それが、ボーイ・ミーツ・ガールだと思う。