シミーのブログ

好きなもの。読書会、少女マンガ、人文系、宇宙、社会学、ノンフィクション、、、と、好きなものを羅列していけば何かがつかめる気がしています。ブログは主に世の中に対するぼんやりとした主張です。よろしくお願いします。twitter @koro81k

老子さんの道

老子』について。

 

彼の思想で重点が置かれているのは「道」である。中国史においてはしばしば、「天」が重視されてきたけれど、老子はその天よりも道について論じている。様々な真理が間接によって語られるように(例:ソクラテスが直に言うのでなく弟子のプラトン経由で言う、みたいな)、「道」もまた語りうるものであればそれは不変の「道」ではない。

 

まあ、『老子』を読んでみる限り、それは「自然」に近い概念な気がする。

なんかこう、僕ら人間はモノをみるとき、自分の心のうちにあるシンボル、像みたいなもんに合わせてモノゴトを観る。壁のシミをじーっと観てると人の顔に見えたりする(ゲシュタルト!)。だから、ただそのモノを観る、ということ1つとっても難しい。

 

さて、この「道」を成すためにはどうするか。

 

これは日ごとにすることを減らしていくのがポイント。けっきょくは何もしないことによってこそ、すべてのことが成される。おかざき真理『阿吽』は、最澄空海という2人の天才を描いたマンガだけど、その中で空海が洞窟にこもり、100万回真言をひたすら唱えるという修行をしていた。

「何もしない」修行。

人は何かをしていないと不安だ。何かをしていないとヤバい病だ。空海の修行は、真言を言う以外のことはしない修行だった。最澄という天才に追いつくため、大学を辞めて真理に速攻で近づくために、あらゆる教典を読み、あらゆることをやってきた空海にとって、これは自我が崩壊してもおかしくない荒行だった。でもそうやって究極の何もしないをすることは、イコール、自然そのものに近づくことでもあった。

 

自然に還りなさい派は、どうも自然に対して理想を抱きすぎている感がある。ルソーなどしかり。でも、特に古代の中国のリアルな自然とか、メチャクチャ厳しかったはず。それこそ人間が立ち入れない「原生」そのままの自然。だから老子が想定していた自然は、理想であると同時に、ある意味で畏れが入っていると思う。

 

畏れに対し、人は寡黙であらねばならない。快楽主義や、「名」のために争うことや、ともかく騒々しいことを排すること。そういう道=自然に対する姿勢を正していくことで、道的直観を得て、なんか良い感じになる。

 

そんな老子の考え方であった。