シミーのブログ

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未来をはじめる

宇野重規『未来をはじめる 「人と一緒にいること」の政治学』について。

未来は希望だ。希望は、「まだ_ない」ものだ。ちなみに過去は「もはや_ない」ものである。ということは現在もまた、過去の希望であったはず。現在ある当たり前のことは意外と新しく、思い込みを捨てて長い射程でみてみること大事。

 

たとえば、相撲は女人禁制、なんてのもおかしな当たり前である。そもそも相撲のはじまりは『日本書紀』で雄略天皇が、何があっても手元狂わないと言った大工の横で「じゃあそこの女、裸で相撲とれ」みたいなこと言って案の定大工がよそ見したなんてエピソードから。江戸時代にあった勧進相撲は、まあ趣味は悪いけども座頭と同じく見世物として行われていた。女性が一段低いところから見世物的に行われていた相撲から、“神事”だから女性禁制、という流れは希望なのかどうかは分からないけれども、まだ先に希望はあるはず。男の子がプリキュアに憧れて良いように、女の子が力士目指したって良いはずだ。

 

ずれた。

 

そうした未来をはじめるために、政治はある。政治のミッションは、異なる利害や価値を持つ人々の共生をいかに実現するか、にある。どれだけ平等化した社会においても対立はなくならない。だからそうしたバラバラな人々が、納得できる枠組みを作れるかがポイントになる。

 

ジャン・ジャック・ルソーは、各人がすべての人と結びつきながら、自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であることは可能か。近世社会において自由と平等は両立しないと考えられてきたけれど、ルソーは各人がしっかり考えれば、一般意思というものに到達できると想定した。これは個別の意思、つまり各人の欲求が集まった特殊意志ではない。単純な足し算では一般意思にならない。

 

この漠然とした一般意思に従うことは、各人の単純な欲求を超えた何かに従うことなので、それは自由だってことなのだけど、この辺が、ルソーが自由主義の擁護者であると同時に、全体主義の父とも呼ばれる所以だ。

 

今風になおすと、多様な少数派が多数派になること、とでも言おうか。

少数派が拒否権持ってたら何も動かなくなる一方で、多数派が押し切るのでは自分が少数派になった時に弾圧されまくる。だから、合議すること。時間をかけて全員が議論に参加すると、共通感覚みたいなものが出てくる。寄合だ。現代世界のキーワードの1つは接続性だけど、それが同質のモノにくっついていく形だと何も生まれない。違っても、異なっても、話し合う。

 

「人間が生まれてきたのは始めるため」(ハンナ・アレント

 

話し合うことからはじめる。希望の未来に向けて。