シミーのブログ

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能という芸能

ちょっと前に薪能を観たことがあった。薪能は本来、2月の御水取りで行われる興福寺の神事だったのだけど、まあ近くでやっていたのだ。こう、意味はまったく分からなかった。でもそれで良かったらしい。能の舞は「型」の組合せで作られるのだけども、他の踊りと違うのは、ほとんどの「型」に意味が「ない」ことだった。

 

えーっ!と思った。

 

イ・チャンドン監督の『納屋を焼く』とかは逆に、すげー意味がこめこめの映画であり、ヒロインのヘミが「グレートハンガー」の踊りをする表現とか、もうなんか内側からほとばしるオーラみたいな感じである。そういうのも好きなのだけども、能の意味のなさに、けっこう衝撃を受けた。

 

能にはいくつか種類があって、そのうち「夢幻能」は、旅の僧とかの「ワキ」がいわれのある場所を訪れ、主人公である「シテ」が謎の人物としてその土地のいわくを紹介していく。つまり「ワキ」はこの世とあの世の境目にいる。「シテ」は神だったり狂だったり鬼だったりする。この世のものではない。だから、この世で解釈できるような意味を持たない。

 

これは存外に難しい。山田ルイ53世が『一発屋芸人列伝』でジョイマンについて書いていたけれど、ジョイマンのギャク(ラップ)は少しでも「意味」が生じた瞬間にただの駄洒落と堕すリスクをはらんでいるという。意味がないから不思議と流して笑うことができる。そして人はあらゆるモノに意味を求めたがる。

 

だから僕は薪能の「シテ」が舞う姿から、何か意味を引き出そうと必死に観ていた。そして何の意味も見いだせなかった。いやホント、これはすごい。

 

芸能はもともと、「見られ・笑われる」という見世物から発している。安全な立場から異形なモノ・奇怪なモノを見下す特質がどうしてもあると思う。映画でも、『グレイテスト・ショーマン』などは、劇団長は上流社会に入り込むために、“家族”である異形な団員たちを切り捨てるシーンがあった。まあそこで流れる『This is Me』とかまあ泣くよね。つーかCMだけで泣くよね。「私たちは家族なのよ」。

 

さておき、能を完成させた観阿弥世阿弥の意図には、見下されていた側が、異界のモノとなることで、なりきることで、この世に対して復讐を果たすことにあったような気がする。見下す・見下されるという関係から、完全に外れた境地に行く。

 

そのため、能の稽古では自分の姿を鏡とかで確認しない。自分の身体の一部を活性化させることを目的とする。もうねー、表現形式として異常である。もちろん良い意味で。他人からどう見られているか、でなく、もっと悠久の何かに対して近づくような身体表現。

 

と、完全に素人ながら語りたいこと多しである。

今回は、安田登『能 650年続いた仕掛けとは』にだいぶ拠っています。