シミーのブログ

好きなもの。読書会、少女マンガ、人文系、宇宙、社会学、ノンフィクション、、、と、好きなものを羅列していけば何かがつかめる気がしています。ブログは主に世の中に対するぼんやりとした主張です。よろしくお願いします。twitter @koro81k

ポケモンマスターになりたかった僕は、コダックを愛することができなかった。

ポケモンGOで屈指の人気を誇るコダックで、少し前に大喜利が起こっていた。頭を抱え、頭を抱え、ぱああっ。みたいな動作をするコダックに合わせ、みんな様々な言葉をのせていた。(スリザリンは嫌だ。スリザリンは嫌だ。………グリフィンドぉール!とか。)

 

さて、僕は世代的に、赤と緑の時にポケモンに触れた。ゲームボーイの素朴なデザイン。圧倒的すぎるエスパー属性の強さ。個性溢れる街とキャラクター。

 

また、映画『ミュウツーの逆襲』は、ナウシカ(マンガ版)級のテーマを扱っていた。人間に設計された“セカンド”として生きる意味とは。この世に生を受けた時、祝福でなく、クローンとして生きる道筋が定められたミュウツーの想いは。なかなかに深い映画である。

 

ということで、ポケモンGOが日本でもリリースされた当初、当然やってみた。粛々とモンスターボールを集め、ひたすらに歩いて卵を孵し、レアポケモンが出る出ないに一気一憂した。

 

結果、飽きた。

 

あの時の、最初にポケモンに触れた時の興奮がもう一度!とか、そういうことではなかった。ポケモンは確実に、新しくなっていたのだ。

 

そんな予感はあった。そもそも、金や銀から、愛着ステータスや、悪属性の追加や、151匹以外のポケモンの登場など、すでに始まっていたのだ。僕はその時点で、確実に古い人間になっていた。ゲームボーイの画素数のままの感性だから、スマートフォンごしに見るコダック達を愛することができなくなっていた。

 

長期で続いているもの、なかでも、最初期にどっぷりその文化につかり、しばらく離れた後、再びそこに戻ってくることは、果たして簡単なことだろうか。ガンダムとか。

 

僕は知っている。知ってしまっている。

ポリゴン事件を。

当時、絶大な人気だったテレビアニメのポケモンで、ポリゴンの登場シーンでの光の明滅が、視聴者と共振を起こしてしまい、何人もの体調不良者を出した。

だから、いつ大切なモノが、自粛とか規制とかで奪われるかは分からない。電気グルーヴだってそうだ。

 

それでも、コンテンツ自体が強ければ、またそれは戻ってくる。問題は、大切なそれが戻ってきた時、あなたはあの時の感性を失っていませんか?ということである。

 

僕はばっちり失っていた。

もはや、ポケモンをニワカとして知っているとも言えない。まあ、多少寂しくもあるけれど、致し方ない。こうやって人は何かを確実に失っていくのかもしれない。

 

さらばポケモン。また会う日まで。