シミーのブログ

好きなもの。読書会、少女マンガ、人文系、宇宙、社会学、ノンフィクション、、、と、好きなものを羅列していけば何かがつかめる気がしています。ブログは主に世の中に対するぼんやりとした主張です。よろしくお願いします。twitter @koro81k

マララさんがノーベル平和賞を獲ったとき、僕は悲しかった。

少し前のノーベル平和賞は、子ども達に紙とペンを!と主張し、武装勢力に襲撃されながら信念を貫いたマララ・ユスフザイさんにあげられた。僕は悲しく、情けなかった。彼女は十分以上に成熟した考え方の持ち主だけど、子どもに、こういったことを言わせてしまうような世界に大人がしたことに。そしてまた彼女に、平和の使者という使命を負わせてしまうことに。

 

香港では今、雨傘運動が繰り広げられている。中国における民主主義・自由の最前線にして、ここが崩れたら中国に希望が潰えるとも言われる最後の防波堤だ。この雨傘運動の女神とされる女性もまた、相当な信念を持った人だけど、20代の女性である。

 

ジャンヌ・ダルクの時からそうだけども、ある運動に対して、僕らは「何者でもない」女性・子どもを、シンボルとして持ち上げたがる。背景を持った男性がその象徴に立つと、何か裏があるんじゃないかとか、何かの地位を狙っているんじゃないかとか、余計な不純物が入るせいかもしれない。

 

どうしたらこうした運動を、ジャンヌ・ダルク級の人物なしに成し遂げられるか。

なんつーか、子どもには、何の条件も要件もなくただただ全肯定されるような時期が必要だと思う。失敗とか挫折とか、強く生きるためには必要とか人は言うけれど、人生のはじまり・最初に失敗や挫折、たとえばいじめや暴力や悪口やネグレクトなんかがあると、やった方は覚えていなくとも、やられた方はずっと残る。本当に消えないので、「それ」も込みで、人生を始めなきゃならなくなる。

 

だから、闘争は、周りの、ほんのささやかな人たちで良い、その人がその人で在ることだけで肯定されるような時期を経た後じゃないといけない。

 

山岸涼子『レべレーション』には、ジャンヌ・ダルクが神からのお告げを授かるシーンが描かれている。日本風に言うと狐憑きだったのかもしれないし、彼女自身は幸せとかそういうベクトルで人生を生き切ったわけじゃないかもしれない。それでも、ほとんど大義を失った戦争になっていた百年戦争に、彼女は関わる必要はなかったはずだ。

 

と、偉そうに宣っているけれども、僕も別に何かをしているわけじゃないし、子ども達を守るために具体的な活動をしているわけでもない。しかし、決断を迫られたとき、「子どもたちが無条件に全肯定される方」を選べるよう、準備だけはしておく。

 

もちろん、大人・子ども・女性に限らず、自らが生きやすいように、不平不満を発信していくのは良いことだ。「みんな我慢している」なんてふわっとした「世間」に負けてはならない。太宰風にいえば、「許さないのは『世間』じゃなく『お前』だろう」

世間とか日本とか社会とか、主語が大きくなってきたら要注意。それはただのマウンティングだ。

 

以上!