シミーのブログ

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フェチズム入門

フェチ、について考えたい。検索をすれば意味とかは出てくるのだけども自分でむんむん考えた末にこういった概念は捉えたい。

 

メガネフェチとか、足フェチ、○○フェチというように、それは「部分」への過剰な愛であるっぽい。あるいは状況。川端康成眠れる美女』は、生きているのか死んでいるのか分からない美女と添い寝する老人を描いたけど、あれとかフェチですね。もう何フェチと言えばいいのかわかんないが。

 

フロイト風に言ってしまえば、幼少期に傍にあって、でも触れられなかったもの。幼児はあまりに無力だけども、世界をしっかり見ている。見ているけど、絶望的にそこには届かない。そういうもんが影響してるんじゃね説。まあ確かに一理ある気もしていて、自分がすでに持っているメガネとか筋肉とか美脚とか、もう手に入れているならばそれを過剰に求めたりはしない。

 

んー。

 

たとえば、谷崎潤一郎痴人の愛』などはどうだろう。あれは無垢で無力な女の子を「育てたい」欲求と、魔性な女の子に「振り回されたい」を両立させたキモチワルイほど気持ち良い小説だったけども、あれは、なんかフェチとは違う気がする。一方で、川端『眠れる美女』は、添い寝はするけどお触りとかしなければ、そこには関係性って生じないので、フェチっぽい。

 

関係性。

 

うん、谷崎『痴人の愛』のほうは、結局はサディストとマゾヒストのお互いの欲求を満たす関係性なわけで、一種のプレイなわけだ。ちなみに、究極のサディズムは僕は「放置」だと思っています。マゾヒストが「いじめてくれ!いじめてくれ!」と叫んでいるところを無視するという。それはマゾヒストが望んでいることをやってやらないという。

 

ずれた。

 

後は、なんですかね。部分への過剰な愛と、関係性が成立していないこと。そしてその愛する部分は、自分にないもの。ああ、自分にないものであることにプラスして、それは自分自身のコンプレックス的な何かに由来したりしていないだろうか。「何故それを好きなのですか?」と、好きなもの・ことを持っている人にこうした質問をするのは野暮でしかないけれど、何故それが好きかと問われれば、各人の「心の穴」にはまるかどうか、じゃなかろうか。

 

「心の穴」は、それぞれにカタチが違う。完璧な“美”みたいなもんがはまる人もいれば、歪な“醜”がはまる人もいる。有機物がはまる人もいるし、無機物がはまる人もいる。ときどきでも、その「心の穴」のカタチを考える機会を持ってみれば、フェチに対して自覚的になり、他者からだまされることはなくなる。だから、時には考えてみる。

 

いやまあ、これも、辞書で調べれば良いんでしょうけどね。