シミーのブログ

好きなもの。読書会、少女マンガ、人文系、宇宙、社会学、ノンフィクション、、、と、好きなものを羅列していけば何かがつかめる気がしています。ブログは主に世の中に対するぼんやりとした主張です。よろしくお願いします。twitter @koro81k

本を・捨てる・生活

そもそも電子書籍で本を読んでいて、「所有」という概念がない人や、図書館で借りて読むなど、同じ読書家であってもその在り方は多様だ。僕はその中で、ごりっごりの買って読む派で、しかも読み終わった本を捨てられないタイプだった。引っ越しのたびに大量の段ボールに入れた本を移動させていた。

 

ただ、結婚し、同居する際に、大量の本を連れていくわけにいかないので、厳密に厳選をかさねたオールタイム・ベストを小さな、ほんとうにささやかな本棚に収まる範囲で持ってきた。そして妻に約束した。「これから、本は、この本棚におさまるようにするよ。」

 

はみだした。

 

マウナロア山のマグマのように、ゆっくりとだが確実に、本があふれ出した。本棚を2列使い、上の部分に平積みにしたけれど、限界だった。実家にはすでに僕の居場所はなく、したがって本の退避も不可能な状況だ。端的に言って地獄だった。

 

と、そんな状況で読んだのが、千葉雅也『勉強の哲学』である。

勉強とは、キモくなること。つまり、ある種の変身である。それまで自分が所属していた集団に適応した言葉・感性とは別のモノを、勉強によって獲得していく。そうすると、従来の共同体に居た人たちからは、キモいと一時的に思われる。でも、ちゃんと戻ってくる。戻ってくるけど、それは以前の自分とは少し違っている。その繰り返し。

 

んで、実践的なところでは、「読書ノート」をつけるということ。

以前から、読書ノートとは言わないまでも、本を読んでいて良かったフレーズとか、そういうもんをメモ書き程度には残してきた。今度は、それを、1冊の本を読み終わった後に、1冊まるまる分から感じたこと・自分が特別と思ったことを抜き出し、書きぬく。そうして、その読了済みの本を成仏させる。

 

そして僕は、本を、捨てた(正確には、ブックオフに売りに出した)。

 

オタキング岡田斗司夫氏は、積ん読本は負債であると言っていた。つまり、未来の時間を自由なものでなく、目に見える「読まねばならぬ本たち」によって縛られていると。数カ月単位でそうした負債を溜めているのは精神衛生上よくないと。まあ、一理ある。僕も今現在、本を捨てるようになったけど、それは読了済の本に限っていて、積ん読本はまだまだある。なんかやっぱり不安なのだ。暇になった時に本がなかったらどうしよう的な。

 

いま、うちの本棚にあるのは、そうした積ん読本と、後は何回も読み返す図鑑と、もうコレは捨てられへんやろ~というレベルで好きな一部の本だ。後は基本、読書ノートを読み返したり、また読み直したくなったら図書館で借りたり場合によっては買い直したりしている(そうした方が作者さんに印税というカタチで応援できるマインド)。

 

慣れてしまえば。この生活が日常になれば。案外、悪くはなかった。

もちろん、大量の本に囲まれた生活も楽しかったけれど、“頭の中”にちゃんとそれが入っていて、まあ時に忘れるにしても取り戻す機会が確保されていれば、それはそれで充分に幸せなのだ。

 

という、ある本好きの変遷でした。