シミーのブログ

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『マチネの終わりに』 愛とは

平野啓一郎『マチネの終わりに』

 

天才ギタリストの蒔野と、国際ジャーナリストの洋子は、たった3回会っただけだが、お互いを深く愛し合うことになる。現代における「愛とは」を思索した良い作品だった。

 

まずもって、蒔野は天才なのだけども、30代後半という年齢を迎え、音楽的スランプを迎えようとしていた。若い時には超絶技巧のど直球で攻められたモノが、人間的深み、みたいなものを求められる時期に来たわけだ。その蒔野のコンサートに、ユーゴスラビア出身の映画監督・ソリッチの娘であり、国際ジャーナリストの洋子は来ていた。

 

なんというか、人と人が分かり合うというのは、こういうことか、という感じだった。周囲がまったく理解できないようなことについて、「あー分かる」と本質的なレベルでお互いのことが何となく分かるような。蒔野はこの後、「匂い」に関するジョークを何度か言うのだけども、それは本当に匂いが合うということなのだろう。カントによると人の体臭はダイレクトに人の記憶とか理性にどーんと刺激を与える暴力みたいなもんだから。

 

さて、順調に行くかと思われる二人だけど、様々な問題・障害が次々に起こる。

洋子はそもそも、リチャードという大学時代からの友人と、婚約をしている状態である。このね、リチャードね。彼はリーマンショックで話題になったサブプライム・ローンに理論的根拠を提示した経済学者である。経済ゲームの中で自分たちが努力し、勝ち取ってきた世界を完全に善だと考えているし、身内にはとんでもなく優しい。

ただ、先の、「匂い」という点に着目すると、洋子や蒔野とは別の匂いの持ち主だ。

 

リチャードを、断ち切るという、「選択」。

 

後半の、ソリッチと洋子との親子の会話で、運命論の話が出てくる。古代の悲劇は人間の選択や自由意思が及ばない運命論である。『オイディプス』とか。その後の近代の悲劇は、「あの時、あの選択をしていれば」という人間の選択・性格に起因したものになる。それが最近は、『マトリックス』のように、どうしようもないシステムが人間を囲っている新・運命論というものに回帰してきた。

 

それを示すように起こる、「選択」をした後の洋子と蒔野におとずれる、嘘だろ…。って感じのあのエピソード。僕は、映画『パッセンジャー』のアイツ級の、「そりゃ人としてしちゃあかんやろ」という思いにかられた。『罪と罰』のラスコリ―ニコフを地でいく思想のアイツはしかし、もうどんな自己犠牲を払おうと、決して同情されないことをしたと僕は思った。

 

ただし、それはまあそれをしたアイツの意思なわけだけども、先の新・運命論の視点からみれば、アイツもまた自分のどうしようもない衝動からそれをしたわけで、舞台の「脇役」の役割の1つと言えなくもない。

 

だからこれは、運命という舞台の中で、二人の人間がいかに生き、いかに人を愛するかを問う大きい話であると同時に、二人だけにしか理解できない深い小さい世界の話でもある。

 

うん、快作だった。