シミーのブログ

好きなもの。読書会、少女マンガ、人文系、宇宙、社会学、ノンフィクション、、、と、好きなものを羅列していけば何かがつかめる気がしています。ブログは主に世の中に対するぼんやりとした主張です。よろしくお願いします。twitter @koro81k

本と本のネットワーク

ピエール・バイヤール『読んでいない本を堂々と語る方法』には、本そのものだけでなく、本Aと本Bとのつながり、或いは本だけでなく、著者や時代背景など、本に関する網目のようなネットワークのことを知っていれば、その本を読んでいなくても大抵のことは語れる、みたいな話があった。

 

朗報である。

 

というか、ある本が面白いことを紹介する時、その本自体だけで閉じていたら、人にはなかなか伝わらない。類似作品や、その作品がインスパイアされたと思われる先行作品群、つまりその本が広い世界の中でどういう位置づけにあるか、を伝えること。

 

もともと本というか、物語は、音読するものだった。文字自体が、俗世とは離れた異界との交信を示すものか、または本気で実利的な、誰々にいくら貸したか記録するものだ。それに、紙をはじめ記録媒体は高価か、石板のように使いづらいかである。自然、物語は口伝として始まる。口伝ということは、2人以上の人で紡がれたモノなわけで、物語を語らうという空間も含め、特別なものなのだと思う。

 

活版印刷以降、世界に徐々に本という形式が広まり、マクルーハン言うところの「黙読によって生まれた無意識」ができるようになる。1人で本を読み、それぞれの体系を作っていくわけだけども、人同士の物語の共有が希薄になると同時に、本同士のつながりもか細~いものになっていく。

 

ドラマ『アンナチュラル』で、1万体(数は曖昧ですすいません)のご遺体を検体してきたベテラン解剖医が、最新の知見をまったく勉強しておらず、「カビの生えた解剖経験になんの価値がある?」と論破されるシーンがあった。科学とか、いわゆる理系の知識は直線の学問だから、いくら今までの定説を知っていても、最新の研究成果を知っていないと意味がなくなる。いっぽう、文系の学問は、円環の学問なので、逆に今までの蓄積を知っていないと薄っぺらな印象をぬぐえない。

 

たくさん読んでいる読書家、それも、芥川龍之介が『侏儒の言葉』で言っていたような、「消化機能を鍛えつつたくさん食べた」読書家は、本を読むのが速い。それは読書(黙読)という行為自体に慣れていることもあるけれど、本同士のネットワークを知っているので、「ああ、これ知ってる」という既存知識が多いので、理解が速いのだ。

 

と、いうことで、本を読むという行為はとても個人的で孤独なものであると「同時に」、今・ここにいる人以外と、国や時代を超えてもつながれるツールでもある。そのつながりの中に入るためには、自分本位というか、自意識丸出しの読み方だと難しい。自意識丸出しだと、本の知識やネットワークの感性が入ってくる余地がないからだ。

 

というわけで、みなさん本読みましょう!