シミーのブログ

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愛せなくたって良いじゃない。愛さなくたって良いじゃない。

マンガ『違国日記』は、高校1年生の女の子と、“姉の遺児”である彼女を引き取ることになった小説家の同居モノだ。さすがはヤマシタトモコと言うべきか、響くものが多いマンガである。

 

遺児を引き取ることになった叔母は、「あなたのことを愛せるか分からない」という。でも、「あなたのことは決して踏みにじらない」とも言う。すごいいいことだ。その人の気持ちは、その人だけのものである。愛するという感情が、相手の気持ちに素手で入り込むことであるならば、それは快感であると同時に、嫌悪でもある。だから、まだ何も知らない二人が、お互いの気持ちを踏みにじらない、という最低限のルールのもとに一緒に住む、というのは、いいことだと思う。

 

桐野夏生は『バラカ』で、ドバイで売られていた少女を買ってきて育てようとする養母が、その娘に、「わたしは全力であなたを愛するから、あなたも私を唯一無二の存在として、尽くしなさい」と言う場面を描いた。さすがグロテスクを信条とする桐野先生。返報性の愛を、ここまでねちょっとした感情とともに見事に描いている。

 

知らぬ他人同士なんだから、その人のことを好きになるかどうかは、分からない。「ハプニング同居もの」とは違うのだ。本屋大賞の『そして、バトンは渡された』では、アンカーにバトンを渡す親の人は、「親としてこうするのは当たり前だろう?」という態度を貫いていた。その態度があまりにもナチュラルであり、押しつけがましくないので、ユーモア込みで爽やかな仕立てになっているのだけど、僕はどっちかと言えば『違国日記』のほうに共感する。別に無理に、愛する必要なんかないのだ。

 

だから、よく有名人の息子とか娘とかが悪さをした時、テレビはその家族のもとに行き、親を糾弾したりする。それは、親は子供に愛情を注ぎ続けるべきであり、いくつになろうと子どもの責任は親の責任であり、なぜなら愛が足りないか間違っているから子どもがそんな悪さをするんだから。

 

なんてグロテスクなのだろう。

 

確かに、愛情はとても深く、安心できるものである。でもそれは、規範じゃない。外部から強制されるもんじゃない。『違国日記』のように、「あの人はわたしのことを、傷つけることは決してない」というタイプの感情さえあれば、そこに何が在ったって良いじゃないか。愛せなくたって良いじゃないか。

 

だいたいね、返報を求める愛は、その相手に対する愛でなく、自己愛である。あくまで自分が大好きで、わたしに奉仕するのは当然で、御恩と奉公のように、御恩風の愛を気まぐれに振りまいてやろうっていう。

 

もっと、依存せず、自由で良いんじゃないかな。