シミーのブログ

好きなもの。読書会、少女マンガ、人文系、宇宙、社会学、ノンフィクション、、、と、好きなものを羅列していけば何かがつかめる気がしています。ブログは主に世の中に対するぼんやりとした主張です。よろしくお願いします。twitter @koro81k

映画『夜は短し歩けよ乙女』について

森見ワールドをいかに再現するか。森見ワールドは、古風でありながらポップな文体とともにあり、また京都という舞台設定も「ああ、こういう不思議なことありそう」みたいな感覚を補強している。だから無理に映像化しようとするとその不思議な感覚を損なってしまうので、けっこう難しい気がしていた。

 

でも、映画『夜は短し歩けよ乙女』は、一夜に起きた不思議な出来事をスピード感をもってテンポよくやってた。まずもって乙女ですね。彼女は、好奇心赴くまま、あらゆる出来事に一直線に関わり、古書店祭の本と同じように、あらゆるモノをつなげていく。孤独と猜疑にさいなまれ、偽電気ブランをまずそうに呑んでいた李白さんすらも彼女の環の中に入れてしまう。

 

だから、乙女にとっての敵は「孤独」であって、先輩が取り込まれそうになった孤独の闇との対峙がラストシーンで描かれた。その道中では、パンツ総番長による運命論の話が入ったりする。パンツ総番長は、学園祭の時にすれ違った美少女と、同じ「りんごが頭にぶつかる」という瞬間を共有することにより、「運命の恋」に堕ちる。その恋の成就を祈念し、その日に履いていたパンツをはき続けている。

 

だから、パンツ総番長をずっと想い続けていた女子がいても、たとえずっと追いかけてきた「りんごの君」が衝撃的な人だったとしても、パンツ総番長は運命に従って「りんごの君」を愛そうとする。それは「先輩」の言うとおり「ご都合主義」なのかもしれない。自分で決断せず、運命に身を委ねる行為。でも言い方を変えれば、ロマンティシズムに殉じている、とも言える。

 

「先輩」は、乙女に対して恋慕があることを、なかなか認めない。あくまで外堀を埋めることに終始し、「たまたま」「奇遇」を積み重ね続ける。そしてそれだけ偶然を積み重ねれば、それは「必然」であろう、と「詭弁論」を宣う。パンツ総番長が一回性の一瞬間に「運命」を見出し殉じようとしたのに対し、先輩は自分で「たまたま」を大量に生み出し「必然」を作ろうとする。

 

そんな男どもの思惑をさらっと超え、乙女は一夜を駆け抜ける。乙女が目指すは先に書いたように運命とか必然とかでなく、自分の好奇心であり、そうして進んでいった先にある人々のつながり・円環だった。ただ、その円環の「外堀」に、「先輩」という人間がしばしばいることに気付く。あくまで恋に堕ちたのは、彼女の場合、彼女の意思であったような気がする。

 

運命論と人の意思が、京都という不思議ワールドに絡み合い、ポップに疾走する良い映画だった。