シミーのブログ

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陰キャと陽キャはどこで分かれるのか。

僕が学校に通っていた頃、陰キャ陽キャって言葉はなかったけれど、確かにそれらしい区別のようなモノはあった。クラスの中で大きな声で雰囲気を盛り上げる陽キャ、自分1人か少数のグループにこもり目立たない存在である陰キャ。閉鎖的な学校空間は、どの時代でも同じようなものだ。

 

もうなんか、ゴールディング『蠅の王』感がすごい。無人島に少年たちだけが漂流し、生き残るためのルールを作ったはずが、いやもっと積極的に狩りに出るべき!みたいな過激派が登場、太ったおどおどした子とかは邪険に扱われていき…。

 

でも、大人が島に来た瞬間に、その関係性は変わる。

 

クラスにおける陰キャ陽キャも、そんなとこはないだろうか。みんなつまるところ、『自由からの逃走』にあるように、自由という重責に耐えきれず、「こっち行こうぜ!」と大きな声で決断していく陽キャに意思決定を委ね、自由を放棄する。その中で、陽キャの決断にノリ切れない、文字どおりノリの悪い勢力が陰キャとして浮き上がっていく。

 

そんで、『蠅の王』と同じく、違う場所に行けば、陰キャ陽キャの固定された関係はなくなるんじゃないか。キャ、に続くのは、キャラ、だと思うんだけど、キャラは文脈依存的だ。キャラクターは逆に、文脈に依存しない。ドラえもんピカチュウは、作品を離れて、新聞紙上や山手線の駅に登場しても通用するからキャラクターだけど、特定の場所や空間でしか認知されないのはキャラである。

 

ただ、日本の学校生活は、もう人生これしかない!ってくらいどっぷりそこに漬かる。なので、特定の場所におけるキャラ、に過ぎないものが、キャラクターとして、陰キャ陽キャは一生続くモノとして、思い込んでしまうんじゃないかな。

 

それは、キツい。陰キャが一見してつらそうだけども、陽キャもつらいと思う。常に決断を迫られ続け、期待に応え続け、Show Must Go On なわけだから。SNSで過激動画を投稿しちゃったりとかするのは、どちらかと言えば陽キャな気がしていて、それは仲間内での盛り上がりがすべてだから、外の世界に大人がいることがよく分からないから、そーゆう行動に出ちゃう。

 

なんかこう、陽キャとか陰キャとか区別して、意思決定を陽キャにすべて委ねないで、みんなが意見を幼少期から言えるような訓練をして、なんとなく納得の合意形成が図れるような術を、身に着けるべきだと思う。うまく意見が言えないような子も、どういうカタチなら意見が言えるか考え、ちゃんと意見が表明できるようにする。

 

自由を、特定の個人に委ねない。

それが陰キャ陽キャの呪いから逃れる術なんじゃないか説。