シミーのブログ

好きなもの。読書会、少女マンガ、人文系、宇宙、社会学、ノンフィクション、、、と、好きなものを羅列していけば何かがつかめる気がしています。ブログは主に世の中に対するぼんやりとした主張です。よろしくお願いします。twitter @koro81k

教室でゲロを吐くシーンについての考察

もちろん、比喩である。

芥川が、葬式のシーンを描くとき、参列者はみんな神妙な顔をしているけれど、「腹減ったなぁ」とかそういう、どうでも良いことを考えている人々を描写した。人が大人数集まると、独特の「こうあらねば」なる雰囲気が生まれ、それが習慣化すると、学校の教室や会社のオフィスのような空気になる。この空気に抗うことは、難しい。

 

教室でゲロを吐くと、普段は表に出てこない、雰囲気に紐づけられた演技の仮面が崩れる。緊急事態だ。エマージェンシーだ。だから、人間性が出る。率先して雑巾でゲロを吹く人がいたり、「うわー!」って叫んだ後放心して遠目に見ている子がいたり、教室外に助けを求めに出たり、吐いた子の背中をさすったり。

 

綿谷りさ『勝手にふるえてろ』の映画でも、やはり、オフィスでゲロを吐くようなシーンがあった。まあこちらは、言葉のゲロだけど。自分にとって絶望的に知られたくない秘密をもらされたヒロインのヨシカは(まあ、相手の同僚には、悪意皆無だったのだが)、自分も相手が知らない秘密をばらす。「妊娠した!」という大嘘ゲロをまき散らしながら。

 

まあ、習慣の力は強いので、1日くらいはざわつくかもしれない。少しすると、日常に戻る。ルーティンとは、「異常」を「通常」にしていくパワーである。ゲロを吐く異常も、「まあ、ちょっと気分悪かったんだよね」と、日常的な解釈とともに、きっちり回収されていく。しかし、ゲロを吐いた後の日常は、決して、それまでの日常ではない。「崩れうる」という感覚が付きまとうようになる。演技していても、いつか、何かが漏れ出す、ぼんやりとした不安。

 

そんなシーンが、僕は面白いと思う。今まで、普通だと思っていたこと、そうだと完全に思い込んできたことが、ウエハースのようにばりっと崩れるシーン。川上未映子『ヘヴン』なんかもよかった。「斜視」の彼が壮絶ないじめに遭ってしまう話で、斜視の彼自身はそうだと思いこんできた世界が、いじめっ子からの一言で崩れていく。

 

ポイントとして、ゲロを吐く時は、一気呵成に吐ききること。

中途半端に日常に還ろうとしたりして、エクスキューズをつけたり、途中で止めようとしてはいけない。ゲロをぶちまける相手に、何も反論の余地を与えないぐらいに、吐き切る。相手が反論して噛みついてくるようではまだまだだ。それは池井戸潤的な吐き方だ。「倍返し」には「100倍返し」が返ってくるのだ。

 

「ああ、この人とは、生きている土台そのものが違うんだ」という思いを相手に抱かせるくらいの、ゲロ。そんな話はエネルギーに満ちていて、けっこう好きだ。