シミーのブログ

好きなもの。読書会、少女マンガ、人文系、宇宙、社会学、ノンフィクション、、、と、好きなものを羅列していけば何かがつかめる気がしています。ブログは主に世の中に対するぼんやりとした主張です。よろしくお願いします。twitter @koro81k

アジフライを頼むのでなく、カキフライを所望する人になるということ。

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』には、「人は自由の重荷に耐えられない」なる言葉がある。フロムを始めとしたフランクフルト学派は、ナチス・ドイツから文字どおり絶滅寸前まで追い詰められた人たちが中心になって、当時のドイツ人たちが何故ナチスに同一化していったかを分析した。

 

選択することは、しんどい。責任が伴うからだ。しかも、常に成功するとは限らない。毎回、定食屋でアジフライを注文していたら、楽だ。味は想像できるし、これをしたらこのぐらいの満足感にはなる、という安心がある。わざわざ、カキフライを選択するリスクを負う必要は、別にない。

 

個人化、つまり、みんなっていう大きなものが行く方向でなく、別の方向に行くこと(この場合は定番メニューをあえてはずれること)は、孤独化への道でもある。寂しくて哀しくて、イイね!なんかつかない。ただそうすると、その人は「カキフライの味」を知らないままに終わる。

 

酸っぱいぶどう理論と同じで、自分がそれを知らない「から」、それは不味いものだと決めつける。味方と敵を明確に分けて、味方内での団結を強め、ちょっと外に出たら通じない安心感に、人は惹かれてしまう。

 

だけど、当然ながら、ナチスの戦略はじり貧である。少し転んで障害を負ったら。自分の性癖が実は同性愛寄りだったら。歳をとって身体に不具合が出てきたら。たちまち「味方」じゃなくなる。そうして味方はどんどん減っていくうえに、少しでも味方の基準に合わないと排除される。自由の重荷を背負わなかった代償は、自分の生き死にを自分で決められなくなることだ。

 

自由は、ちょっとでも手放すと、そこから広がってどんどん不自由になっていく。確かに、いちいち選択を迫られ、「いま、あんたがその状況にいるのは、あんたがその時にその選択をしたせいである」と責任が帰属される。それよりは、何か別の主体に責任をお任せし、ほどよいポジションで心地よい安心感を得ているほうが、幸せかもしれない。

 

カキフライの味を、知らない人生。

 

僕?僕も同じだ。すき家に行ったら3種のチーズ牛丼一択だし、ケーキ屋に行ったら必ずモンブランだ。なんかこう、「シェフの気まぐれサラダ」とかをあまり信用できない心性なんかもあって、自由であることはそりゃ好ましいことなんだろうけれど、与えられた選択肢もまた制限があったりするわけで。

 

まああれですね、カキフライを超えて、お店の人と仲良くなって、メニューにない裏メニューとかまかないとか、そこまで出してもらえるくらいになるとすごい自由ですよね。お店の人には迷惑だけど。