シミーのブログ

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男女のすれ違いを描き続けたアニメーション監督について

賛否両論あろう。新海誠監督について書いてみる。

 

新海監督は、デビュー作『ほしのこえ』を、ほとんど独力で作った。協働が常識のアニメ界において、最初から異端だったのだ。『ほしのこえ』は、女の子がなんでか知らないけど地球代表で宇宙の果てに飛んでいき、地球に残る少年とケータイで連絡を取り合う。取り合うのだが、どんどん時間軸が離れていき、二人が共有できるものはなくなっていく。

 

良くも悪くも、セカイ系の旗手として持ち上げられた新海監督は、その後『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』『星を追う子ども』などを手掛けていくも、カルト的な人気に留まっていた。それが、川村元気との出会いで、『君の名は。』により一般のレベルまで膾炙する。浸透する。新海誠がもともと持っていたポップな部分が。

 

んで、最新作『天気の子』にいたるわけだけども、そのラストは、『ほしのこえ』で「誰か(主に美少女戦士)が犠牲になれば、セカイ(≒世界)そのものが救われる。君と僕の選択がセカイを変えるのだけども、基本的にはセカイのために涙をのんで犠牲になろう」という、セカイ系ど真ん中の思想に対する、数十年ごしのアンサーだと思った。

 

このラストに対して賛否両論あるのは良い。長年のテーマだろうから。

もう1つ、賛否あるところ、というか、否よりな気がするのが、男女のすれ違い。

 

『天気の子』における主人公の帆高は、警察=セカイに追われる。その追われる動機は、帆高自身が家出少年であることと、拳銃(まあ、物語におけるリビドーの象徴だよね)を暴発してしまうことによる。言い方を悪くすると、自業自得である。別に、“天気の子”である陽菜が「晴れ女」業を積極的に行うことによる、セカイからの反発なわけではない。しかも、願うことによって晴れを生み出す陽菜は、徐々に人間であることを失っていくわけだが、つまり晴れ女を続けることによる反動は、すべて彼女が負っている。

 

だから、君と僕が背負っているモノは決定的に違うし、見方によっては、二人は何も共有できていないのである。『秒速5センチメートル』などは、小学生~中学生時代にちょっとだけお互いの人生が交錯するかに見えた君と僕が、その後の人生でまったく、まーったく何も関わらずに終わる話だった。

 

だから、このすれ違いもまた、もともと在った新海イズムなのだ。そこにあるのはシンプルなハッピーエンドではなく、転んでもすれ違っても生きていけるハッピーマインドである(©矢沢あい先生)。いや、すいません違いますね。ばっちり思春期にありがちな、この、セカイに独り感。

 

確かに、『天気の子』は、選択がセカイを変える話だった。そしてその選択は、君と僕ではなく、先に進んでいく君と、そこに追いつけない僕が、決めたものだった。

 

ほめてます。