シミーのブログ

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亡者たちは『蜘蛛の糸』を登ろうとでなく、引きずり降ろそうとしてたのか。

芥川龍之介蜘蛛の糸』。お釈迦さまが弟子のカンダタとイチャイチャしてて、戯れに下の階層に蜘蛛の糸をつつーっと垂らす。一人の人間がその蜘蛛の糸を登ろうとすると、亡者たちが群がってきて、蜘蛛の糸が切れてしまう。シンプルながら人間の業を的確についてくる芥川の短編。

 

僕はこれは、1人の人を助けようとすると、みんながみんな助かろうとして我先に奔ってくるから、全員を救おうとするのは容易じゃないし、人はこうした自分が一番な人間ばっかりだからどうしようもないよね、という話かと解釈してた。

その根底には、俺が私が最初に蜘蛛の糸を登ったる!精神だと。

 

でも徐々に、ちょっと違うかなと。

人は、「他人が自分を差し置いて幸せになること」が許せないんじゃないか。だから、蜘蛛の糸を自分が登ろうというよりは、上に行こうとする人間を引きずり降ろすことに主眼が置かれてるんじゃないか。

 

というのは、いろいろな場面に出てくるクレーマーって、社会をより良きものにしようというより、「あんただけが楽しんでるの許せない」って業が、ある気がする。俺の私のいるこの下まで、“降りてこい!”。

 

仏教は、僕の浅薄な知識によると、自分で自分を救う宗教だ。キリストのように最期の審判になれば神さまの前で大人しくするようなモノでなく、イスラムのように全的に神さまの判断に委ねますでもない。徳を自分で積んでいくしかない、仏教。

 

人にはみんな仏性がある。古代仏教が生まれたインドでは、カースト制が強固に根付いていた土地だから、この思想は革命的だった。カーストの下の方の連中に、仏になれるクラスの、そうした心性があるとは思いもよらなかったのだ。インドでは結局、ヒンドゥー教カーストが今日まで生き残ってきたけれど、こうした、あらゆるモノに仏性があるって考え方は、各地の土着の信仰と結びつく。あの神さまもこの神さまも、お釈迦さまの「化身」なのだという。

 

キリストやイスラムは、それを認めない。唯一絶対の神は、他の異神を許さない。

けれども仏教は、やさしくさりげなく包み込む。お釈迦さまがカタチを変えてそこに現れているのだ、という。

 

まあなんかそんなわけで、仏教がそもそも、自分で自分を救うためにがんばんな、先輩(菩薩さんたち)も現世近くに残って応援すっから、という趣旨であるならば、蜘蛛の糸を登る人を、邪魔する必要なんか本当はない。その蜘蛛の糸は、いずれ、あなたの元にも降りてくる。他人の努力を否定することによって、あなたの努力の価値が相対的に上がるわけではないのだ。

 

蜘蛛の糸を登る人を応援する亡者に、僕はなる。