シミーのブログ

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『罪と罰』からセクハラ・パワハラを考える

罪と罰』は、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフが、「百の善行を積んでれば悪人(この場合守銭奴の金貸しの老婆)を殺したってよくね?」という思想を抱き、殺人を犯す話。彼の本名をロシア語表記すると、Pが3つ並ぶ「PPP」。これは、世界の終末に現れるアンチ・キリスト(オーメン!)の「666」を裏返した文字で、かなり世紀末的な、世も末的な思想であることが表現されている。

 

最近だと、『殺人出産』(10人産めば1人殺しても良いよね?)にそういったモチーフが使われたり、『マチネの終わりに』では、もう決定的に人としてそれしちゃアカンだろって行為も、「わたしは完璧に善良な人間じゃないけど完璧な人間ってこの世にいなくてどっちかと言うとわたし今まで相当な善良人だったしこれからもがんばるので、この罪はそんな重くないよね?」って思想で正当化されたりした。

 

まあなんか、よくある話ではあるのだ。

 

セクハラ、パワハラにおいても、その行為が、被害者がどう思うかって主観に依拠する部分が多いことから、加害者の行為もその人のキャラクターだから、みたいな風に押し込まれることがある。「言葉は乱暴だけど、彼は仕事できるんだよねぇ」とか、「セクハラっぽい言動はあるけど、普段は優しい人なんだよ」とか。

 

何か悪いことをしていても、他の部分、普段の言動がしっかりしていれば、免罪されるような気がする問題。本当は、その行為はその行為として裁かれるべきである。普段が上級国民であろうが反社会的勢力であろうが、殺人は殺人だし、ハラスメントはハラスメントだ。その1点をもって、悪い。罪を憎んで人を憎まず、はこの精神なんじゃないか。

 

だから逆に、罪を犯した、ある悪い行いをした人が、全人格的に悪い人、ってわけでもない。確かに、ある悪い行いをしたかもしれないけれど、その行為に対する反省とリカバリーをしっかり行えば、それ以上はその人の人格にその悪い行いは浸み出さない。人間、魔が差すことは往々にしてあるのだ。

 

罪と罰』では、主人公のラスコーリニコフは、善行を積んでいるし、むしろ殺した金貸しの老婆は社会にとっての害だし、全然OKっしょ、という気分でいる。

こんな思想を持った彼と、検事の人との論争とか見ものである。ドストエフスキーの小説に特徴的な、登場人物たちの長い語り。要点を押さえた簡潔なレジュメだと、むしろこういうのは伝わらない。語る過程そのものが面白い。

 

ということで、ハラスメントをした「けど」その人が普段は良い人だから、ハラスメント行為そのものが免罪されるってことはない。いっぽうで、ハラスメントをした「から」その人が全人格的に否定されるわけでもない。

 

そこを分離して考えるの大事。