シミーのブログ

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「礼儀をわきまえろ!」と喚く人に、言ってやりたいこと

だいたい、伝統を重んじる系の人が、下の人に向かって喚く言葉。「礼儀をわきまえろ!」について、考えてみたい。これは、先週の「ノーサイド・ゲーム」で、サイクロンズの監督が共同記者会見で言っていたことだ。

 

やっぱりここは、孔子さんから振り返るか。

孔子は、儒家の開祖とみなされているけれど、だいたい儒家の思想というのは、彼の弟子たちが練り上げた体系だ。孔子自身は、その「儒」の字に近い「濡」が表すように、各地をまわる呪術師的な側面があった。雨乞いだをしてまわる祈祷師。これより後の中国では、「天」って概念が主流になって、天から見放されるような主君は引きずり降ろしてOKって考え方になった。孔子がやってたのは、そうした「天罰」である干ばつを救うことだから、現体制を温存する方向だ。

 

だから、墨子とかは、孔子たちを批判した。墨子の「墨」は、入れ墨である。つまり、罪人だ。罪人は穢れとされ、普通の職業にはつけなくなる。その代わりに、実用的な技術を身に着け(墨子集団は築城術や専守防衛の軍略に優れていた)、コンサルタントとして戦乱の地で活躍した。そんな墨子たちにとって、自分たちを排斥し続ける体制を擁護する孔子たち儒家は、許しがたいものだった。

 

また、三国志における関羽が、「義絶」として称賛されたのは、主君を変えなかったから。逆に言えば、中国では実力がないなってヤツは、どんどん部下が離れていく。絶えず異民族から侵攻を受け続け、いつ国が亡ぶか分からない厭世観とともに生きてきた彼らは、自分がついていく主君を変えることにためらいがない。生き延びるため。

 

と言うことで、本場の思想に従うならば、「礼儀をわきまえろ!」とか、上から言われる筋合いはないと思うのだ。要はあなたが、礼儀をわきまえられるに堪えることをしてきてないってことだから。

 

さて、この礼儀。上下の関係だけではない。義、と関係している。義は、何があっても自分は義を結んだ人を助ける、という心意気である。この心意気をマイルドに、慣習に合うようにチューニングしたのが礼儀だと僕は思う。とすれば、自分が世話になり、心の底で義理があるなぁと感じている人に対しては、確かに礼儀をわきまえるべきなのだ。

 

仁義を切る、とも言う。たとえ喧嘩をする相手であっても、仁義を切っておくにこしたことはない。仁義を切らずに喧嘩を始めると、相手は一生、どろどろした感情とともに根に持つ。争いを、その場ですぱっと切るためには、仁義を切っておくこと大事。

 

と、言ってやりたい。