シミーのブログ

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あおり運転と遠藤周作『沈黙』

遠藤周作『沈黙』の面白いところは、何度も神を裏切るキチジローが、頑強に信仰を捨てようとしないロドリゴ神父のとこに、幾度も幾度も現れることだ。ぶっちゃけ、ロドリゴ神父はキチジローのこと嫌いなんだけど、神父たるものそういう差別はできない。映画『沈黙 サイレンス』ではこのキチジロー役を窪塚洋介がやってて、なんならちょっとイエスの顔だちに寄せて来てた。

 

自分が痛めつけられるなら耐えられる。それは気持ちの良い殉教だ。でも、江戸幕府のねっとりした棄教政策は、神は、殉教を許してくれない。むしろ、自分が信仰を捨てないがために、「もう棄教する!神を踏む!」と言ってる村人たちを執拗に拷問し続ける。そうして懊悩するロドリゴ神父のところに、「パードレ!俺の懺悔を聞いてくれ!」とキチジローはみすぼらしい姿でやってくる。そんで、ロドリゴ神父は悟る。ああ、神の姿は…。

 

昨今、巷を騒がせているあおり運転は、車っていう自分を拡張してくれるもの、要するに自分が強くなる武器を手にすることによって、攻撃性を増す連中がやってるという説がある。また、SNSの動画投稿などでは、仲間うちで過激な行動が称賛されるため、外の目が入っていないから、こうした行動が生まれてくる、とも。

 

このうち、後者について考えたい。仲間うちで過激な行動に走っていくという時、彼は彼女は、心の底に神を、キチジローを、置いていないんだろうなぁ、と。

子どもの頃とか、駄菓子屋って、完全にノーガードだった。万引きしようとすればいくらでもできる環境だった。でもその時、誰も見ていなくても、誰かが見てるっていう感覚があると、万引きには走らない。

 

仲間からの視線、は、結局は拡張した自分の視線だ。SNSに動画を投稿するためにエスカレートしていく行為は、つまるところ自分の拡張でしかない。承認欲求、という時、それは他者からの承認じゃなく、自分を認めてくれる、第二第三の自分からの承認になってしまってる。徹底して残酷で、貫徹して冷酷な、『沈黙』の他者を内面に持っていないのだ。

 

この、絶対的とも言える他者は、いったいにどこで芽生えるのか。

はっきりとは言えないけど、こう、こそこそしてる行為があるとこじゃないかな。

 

今の思想って、Facebookなんかが典型だけど、クリスタル人間、つまり全方位的に人格って同じで、こそこそする行為ってなくね?になってる部分がある。暗闇がない。いや、あるんだけど、その暗闇も、闇垢とか、公開前提になっちゃってて、暗い森の中でぐちゃぐちゃのエロ本探すみたいな暗さじゃない。

 

その、後ろめたい行為が、『沈黙』的な他者を生む。「見られている」という感覚。

というわけで、みんなもっとこそこそせい。